「この腰抜けが!貴様も大久保一翁同様、徳川の大恩を忘れ去ったか!」
男は立ち上がり、刹那、腰の辺りに何かを探るようだった。
しかし、その手は空を掴んだだけで男の望むものは得られなかった。
男の目が怒りのやり場を探して彷徨ったが、結局政府高官を絞め殺す訳にもいかぬと思ったらしい。
「貴様になど、もう頼まねぇ!」
男は吐き捨て、部屋を出て行った。
― 下らねぇな
暫し、遠ざかっていく荒々しい足音を聞いていた。その真摯な憤怒を痛ましくすら思う。
男は実に真摯だった。
幕府瓦解の折に行き場を失った家康公の彫像を、男は引き取ったらしかった。
そして、それを祀るための社を建てたいと言った。しかし、何事にも金がいる。
そこで男は徳川家に縁のある者たちを説いて回って、金を集めているとのことだった。
ただただ、先祖代々徳川の禄を食んできた、その恩に報いるために。そこには一抹の私心もない。
― しっかし、山岡もなあ。面倒なこと、してくれるぜ
煙草盆に手を伸ばしながら鼻で笑ってしまう。
同じ旧幕臣で共に江戸城開城に尽力した山岡鉄太郎は豪胆でいい男だが、気が回る方ではない。
男に、旧旗本連中に顔の利く『勝海舟』を紹介したのは山岡だった。結局、恨まれるのはこっちなのだから、たまったものではない。
煙管を咥えると、苦かった。思った以上にこの訪問に自分が苛立っているのに気づく。
職を失くした幕臣たちが次から次へと金の無心に来る。必要なところには出してやる用意もあるが、そんな腹の足しにもならぬものに遣る余裕はない。
それにあの剣幕なら結局は何処からでも金をかき集めて、自分でどうにかするだろう。助けなんかいらんくせに、容易に手を伸ばすんじゃねえ。そんな想いも苛立ちの一因だ。
逆賊扱いされるのも心外だった。己ほど徳川のために身命を賭した人間などいないというのに。
そんなことも察せられねえから、負けちまうんだよと毒づく。
煙を吐き出す。その行く末を何気に見ていると、先ほど男が閉め損ねた障子の隙間から射す光に溶けていた。
斬り込むように射す光。薄汚れた畳を白く照らしている。
― あれァ、俺を薄情と詰るかね
つまらない苛立ちの間にふっと、思いついた。光に揺れる煙のように微かな思いつきだ。
山岡が書いたという紹介状に目を落とす。そこには、先ほど部屋を出て行った男の名が記されていた。
今井信郎。元京都見回り組。戊辰の戦を函館まで戦い抜いた男。
…そして慶応三年十一月十五日に坂本龍馬を殺したと、自ら証言した男だ。
一体、何を思いながらあの男はここに座っていたのか。
男は一言もその話をしなかった。悪かったとも、仕方がなかったとも、自分に義があるとも。
もしかしたら、こっちが龍馬の師であることを知らないのかもしれない。
だからこっちも何も問わなかった。何故にあれを殺したのか。如何にして殺したのか。本当にお前が殺したのか。
実は別の誰かの罪を被ったんじゃねえだろうなと、問い詰めることもしないでいた。
怒鳴り散らすことにも、罵ることにも慣れているのに。
つまらぬことに苛立っていないで、まずそれを詰るべきだったろう。弟子を殺された師としては。
― だけどなぁ
射してくる光が眩しすぎる。だが、立ち上がって障子を閉める気も起きない。
― 今更、言っても詮無きことじゃぁねえか。オメェが帰ってくる訳じゃあるめぇし
光の中にあの稀有な弟子が座っているような感じがした。目には見えないがもしかしたら、魂とか言う奴がそこにいるのかもしれない。
細い目に、悲しいような寂しいような色を浮かべて、それでも笑っている龍馬が。
― それになぁ、あん男もオメェも俺も、つまるところは一緒なんだよ
その姿は見えないのだけれど、何となくその目から目を逸らすようにして煙草盆を見ていた。
にこにこと笑って何も言わない弟子はただ言葉の続きを待っている気がした。 かつて自分の説法を、さも可笑しそうに聞いていたときのように。
― オメェが裏でちょろちょろ駆け回ったのも、俺が幕府の連中を見捨てたのもおんなじ。テメェの理屈のためサ。
あれが東照大権現様の木像のために駆け回るのも、オメェを殺したのも、アイツの理屈のためなのサ。
心の内で一通り言って、ちらと眼を上げた。やはりそこには斜めに射す光と見慣れた書房があるばかり。
ぽっかりとした六畳間をしんとした光が照らしているだけだ。あの長身の弟子が座っているはずもなかった。
― 馬鹿くせぇ
ただ一つの義などないのだ。ただそれぞれがそれぞれの理屈で動き、なるようになるだけのことだ。
その結果を恨む恨まないというのは幼稚で、下らない。
― あれだって邪魔になりゃ、俺を始末しただろうな
聞いた話だが、あの弟子は己の師が幕府の中枢に入ることを嫌がったらしい。幕府に一つ城郭が増えるようなものだと。
その話を聞いたとき、思わず笑った。
そこまであれが己を買っていてくれたのかという気恥ずかしさと、 あれは本気で己と敵対するつもりだったのかという…なんというか一抹の悲しさと。
― でもな…俺ぁ
再び煙管を咥える。酷く苦い煙草を味わいながら、共に過ごした短い日々を思う。
あの時、確かに隣に並んでいた。だが、同じ方向を見ていたのかどうか、今をもって尚よく分からない。
― オメェを殺したくはなかったよ、龍。オメェの理屈がどんなに俺の理屈と違っててもな
吐き出した煙は先ほどと同じように細く棚引くと、光に溶けていった。