ほとがら
「お茶を飲んでいってはいかがです?」
 
 イギリス公使館の廊下はまだ木の香りが新しい。先日の大火でここヨコハマの外国人居留地の大半が焼け落ち、この白亜の公使館もついこの間、建て直されたばかりだった。設計はアメリカ人で建設は日本人。外観はヴェランダもある完全な西洋建築だったが、壁の塗り方は日本建築の伝統を用い、屋内は純イギリス式という奇妙な建物だった。
 時は深夜というより、明け方近く。月はなく、手にしたランプの燃える音が聞こえるほどの静寂だった。
 
 「忙しくてね」
 
  傍らを歩む男は短く言った。その声音に疲労の色は隠せない。
 
「しかし、勝安房守。お客にお茶も食事も出さずに帰すのが我々の流儀と思われては、困りますから」
 
 日本人の多くがそうであるように、酷く小柄なその男はこちらを見上げた。日本人の瞳は皆漆黒だが、男の目の色は一層深い。そう思えるのは男の目の黒い部分が、他の者のそれより多いせいでもあるし、男がこうしてこちらの頭の中まで見透かそうとするようにじっと人を見据えるせいかもしれない。
 
「…サトウさん。アンタ、本当に御自分の上役がお嫌いだねぇ」
 
 今回もまたこちらが言ってもいないことをきっちりと見透かして、男は明け透けに言う。その明け透けさに思わず苦笑を返す。
 
「貴方だって、サー・ハリー・パークスが気持ちの良い紳士だとは思わないでしょう?」
 
 イギリス公使ハリー・パークスは優れた外交官には違いなかったが、酷い癇癪持ちだ。ハリー卿は時に相手を罵倒して、交渉相手を怒らせたり怯えさせたりした。今日もまた公使館を訪れた勝安房守になかなか会おうとせず、かなり待たせてしまったのだ。
 
「いいお方さ、サー・ハリーは」
 
 それは意外な評価だった。ハリー卿と会談したことのある日本人で、そう評価する者はまずいない。
 
「元々、こっちだって断りなしに来たんだしね。それに俺がメシも食わねぇで待ってるって言ったら、結局、会いに来て下さったじゃねぇか。だから、あのお人はいい方さ」
 
 そう言ってから、男は欠伸を一つ噛み殺した。
 
「ただ、こう遅くなったのは参ったね。眠くて敵わないよ」
 
 己の肩を揉みながら、男はまるで一仕事終えて『セントウ』にでも行くような気軽さで歩いていた。夜明け前の闇は殊更に濃い。そんな中をランプ一つの明るさを頼りに、男は飄々と歩いていく。
 その軽さに、一抹の不吉さを憶えた。
 
「せめて、夜が明けるまで時間を潰していってはどうです?」
「悪ぃけど、俺はあんた方のお茶よりさ、珈琲の方が好きなんだよ」
 
 こちらの気遣いを、冗談めかして男は笑う。その気楽さに聊かむっとした。
 
「…貴方は随分と命知らずに思えます」
 
 こちらが足を止めたので、少し先を行っていた男は振り返った。言い回しが妙だったのだろうか。きょとんとしてこちらを見上げていた。
 
「貴方は『トクガワ』軍の総帥でしょう?」
「まあ、そういうことになるね」
 
 男はこちらの言いたいことを何となく察したらしかった。
 
「しかも、敵軍に降伏することを決めた。まだ、十分に戦う余力はあるのに」
「徳川には軍艦はあるけど金はねぇよ。それに別に俺が決めたワケじゃねぇ」
「それでも、矢面に立つのは貴方でしょう」
「矢面って言い方は気に入らねぇが、ま、そうさな」
 
 今、この国では簡単に人が死ぬ。ふとついこの間、襲いかかってきた刺客の末路を思い出す。斬りおとされた男の首は、頭の傷から脳漿が見えていた。しかし、勇敢な日本人の助けがなければ、その姿になっていたのはこちらの方だった。多くのヨーロッパ人やアメリカ人が『ジョウイ』という閉鎖的なイデオロギーの為に命を落とし、また日本人同士もそれぞれの思想の下で殺し合いを続けている。
 しかし、この男ほどその広くもない背に多くの恨みを負っている者はいない。敵軍からは敵の総大将と目され、味方からは敵に通じ城を明け渡した裏切り者と罵られて。それなのにこの男は、たった数人の供だけを連れてふらりとこの公使館へ現れたのだ。尤も、彼がここに来たとき太陽は十分に高かったのだけれども。
 こちらの次の言葉を待って、男はじっとこちらを見ていた。しかし、こちらが何も言わずにいると男は少し笑った。
 
「俺は考えても仕方がねぇことは、考えねぇことにしているのさ」
 
 その言葉も表情も妙に静かで、同じような表情をした人間を一人思い起こさせた。
それは従容として死に赴いた一人の男だった。自らの腹に刃を突き立てるという残忍であり、厳粛でもある儀式を前にして、あの男はこんな静かな顔をしていなかっただろうか。
 このまま、この男を行かせたらきっと死ぬと思った。
 男はこちらの思惑など余所に、再び歩きだしていた。相変わらず、気楽に。己の従者が控えている部屋の前で立ち止まり、ドアノブに手を伸ばす。
 
「おい、オメエら。かえ…」
 
 知らず知らず、その右腕を掴んでいた。男が驚いて振り返る。その顔の表情に、初めて己の顔が思った以上に切羽詰っていたことを知った。
 
「…どうかしたかい?」
 
 男は困惑したように、しかしどこか労わるようにこちらを眺めた。親子ほどにも年の離れたその男の視線は、彼の『ハカマ』の裾を握る幼子を眺めるときの視線のようで、何となく気恥ずかしくなる。
 
「いいえ…」
 
 掴んでしまった手の行き場がなくなる。命が危ないから帰らせたくないとは、幼子の駄々のようで言い出せなかった。だが代わりに何か言わなければならない。考えているうちに、ふと天啓のような思い付きが下りてきた。
 
「…写真を撮りましょう」
「写真?」
 
 眠くて堪らないと言っていた男は、思い切り顔を顰めた。そんな顔には構わず腕を引く。最初、男は文句を言ったが結局、渋々後ろをついてきた。
 
 
 
 
 
 
 眠い。兎に角、眠い。
 英吉利公使の通訳官、アーネスト・サトウはその上役とは違ってびっくりする程の日本通だ。日本のメシも喜んで食うし、芝居や小唄なんかにも興味があって色々と聞きたがる。こっちがよく知らない昔話なんかも調べていて、日本人より日本に詳しい。
 思えば、異人が来なければこの国の人間は『日本』などという国は知らなかった。国と言えば薩摩やら長州やら藩のことだった。サトウのような異人が描くことで『日本』の輪郭は初めてはっきりと浮かび上がる。しかし、それが『日本』の為によいことなのかは未だ分からない。ただ一つ言えるのは、もう元のように国を閉じ安穏と己の栄華だけを貪ることは不可能だということだ。
 この三百年、日本はまるで深い眠りの中で夢を見ていたように思える。その夢が心地よかっただけに、目覚めるときはこうも辛い。
 そんな日本を叩き起こしに来た張本人の一人である英吉利人は、何故だか唐突に、目の前で『きゃめら』を組み立てていた。「貴方は殺されてしまう人だから」とか何とか言っていたが、どうして急に写真なんぞ撮る気になったのか未だによく分からない。確か自分は彼の上役との談判に疲れ果てて、兎に角眠いと訴えたはずだったのだが。
 
「おい、サトウさんよう」
 
 別段急ぐでもなく『きゃめら』を組み立てる男を、こちらは太刀を抱えて座ったまま待つしかない。
 
「何ですか?まさか魂を抜かれるから写真は撮りたくないなんておっしゃらないでしょう?」
「…俺は別に死ぬつもりなんてねぇよ。もし今、俺か一翁さんが殺されでもしたら全部が台無しだ」
 
 その言葉に偽りはなかった。今、ここで死んだら折角、西郷と約した江戸無血開城も慶喜公の助命も全部引っ繰り返されかねない。しかし、頭の隅に別の想いもあった。己が殺されたら殺されたで、後のことは遺された者がいいようにやるだろう。どうせ、なるようにしかならないのだ。
 
「死ぬワケにいかないなら、もう少し警備を固めたらどうです?」
 
 そんな考えを見透かしたように英吉利人の若造は言う。
 
「…供が多ければ却って目立つだろう?それに、銃で狙われればおんなじさ」
 
 『きゃめら』の後ろの布から顔を上げて、英吉利人は顔を顰めたが何も言わなかった。返す言葉がなかったらしい。その若造らしい顰め面に思わず笑みが零れた。
 
 「殺されるからって、俺の写真なんかとってどうするつもりだい。俺が死んだら家の者にでも渡してくれるのかい?」
「記念ですよ」
 
 再び布の下に顔を入れて、『れんず』を調節しながら英吉利人は言った。
 
「貴方が死んでしまったら、部屋に飾って貴方を偲ぶ縁にしようと思いましてね。お望みなら、貴方の御気の毒な奥様にもお渡ししますが」
 
 いつもの事だが、英吉利人の物言いには何とも皮肉な響きがあった。
 
「…嫌なことを言うねぇ」
「だって、止めてもどうせ死んでしまうのでしょう」
 
 ふと、声の感じが変わる。声は確かに笑みを含んでいるが、何処か真摯でもある。そのことに気づきはしたが、ワザと気づかないふりをした。
 
「命が危ないってのにうろうろしてるのは、お前さん達だって同じだろう。この間、襲撃されたばかりじゃねぇか。危ないのが嫌だっていうなら国に帰るだろ?」
「私はこの国で我々が安全に暮らせるよう、働きかけていますよ。貴方のように好き好んで危険の只中に出かけたりはしません」
「俺だって好きで行ってるワケじゃねぇよ。お前さんの上役は癇癪持ちだが、俺のところの上役は揃いも揃って腰抜け揃いでね。何でも俺に押し付けやがる」
「…それも、知っています」
 
 漸く英吉利人は布から顔を上げた。その顔はいつもの聊か高慢で知識に貪欲な英吉利人の顔だった。
 
「だから、私は止められないと言っているのです。貴方がやらなければ誰もやる人がないし、貴方のすることがこの国の国益に適っていますから」
 
 今度はこちらが返す言葉がなかった。
 遠い異国から海を越えて、わざわざ己の国の利益のためだけに『日本』へ来た若造が、何故だかこちらの身を案じていらしいことは分かった。今、この国では互いの命が明日もあるのか分からないというのに。しかし、彼が止められないというのと同じように、こちらもその気持ちに答える術を持たない。俺は死ぬ気はないと言うのは簡単だが、俺は殺されないと約束はできなかった。
 
「準備ができました。ほら、立って下さい」
 
 こちらが返す言葉を失ったのが分かったのだろう。英吉利人はまだ笑ってはいたが、何処か淡々と言った。
 促されて、渋々立ち上がる。暫くして、布の下からまた顔を出した英吉利人は不満の声を上げた。
 
「どうして、レンズを見ないんです?」
「いいじゃねぇか。こうして付き合ったんだから、恰好くらい好きにしてもさ」
 
 同じ姿勢で六十数えるくらいは止まっていなければならない。右手に持った大刀を床に突いて支えてはいるものの、やや不自然な体勢を保つのは正直、辛かった。
 
「ほら、早くしておくれ。夜が明けてやがる」
 
 そう言うと英吉利人はつと顔を上げた。東の空が微かに白んでいるのを確かめ、再びこちらに向き直る。
 
「…本当にそのままでいいんですね」
「構わないよ」
 
 英吉利人は不服そうだったが、最後まで『れんず』は見ずに差し出した左足の先の方を眺めていた。そうでもしなきゃ、己が死んだあと異人の部屋に飾られる写真なんて撮らせてやれるもんではない。
 東の空の端が白く染まる。やがて、そこに赤々と朱の色をした日が昇り、どうせまた今日も忙しい一日が始まるのだろう。視線の先に薄らと落ちた窓枠の影を見ながら、また眠る間もないかもしれないと考えた。