野犬が嗤う

 

 
声をかける間もない。白光が斜めに走った。次の瞬間には既に一人の男が足元に転がっていた。
倒れた男は小刻みに痙攣していた。跳ねた血飛沫が袴の裾を汚したので、思わず足を引く。提灯をその顔に寄せてみたが、知らない顔だった。これ以上は開けないだろうと思えるくらい見開かれたその目は、提灯の灯りにちらちら光っていたが、既に何も映していないようだった。
 何事かを獣のように咆哮する声が聞こえ、同時に二つの影が走り去った。ただ一人、こちらに背を向けた男がそこへ残る。恐ろしく背が高く、肩幅の広い男だ。
 男がこちらを振り返る。刀を袖で拭って鞘に納めながら、こちらを見てにやにやと嗤う。転がっている男を見て嗤うのか、それともその傍らに立ち尽くすこちらを見て嗤うのか。その視線の方向から、どうも後者のような気がした。
「御怪我はありませんかの?」
 男は嗤いながら、しかし、慇懃に言った。ないと答えると、男はこちらから提灯を取り上げた。
「では、参りましょうかの」
 男は悠然と歩き始めた。未だ震えている半死半生の男の側を血だまりを踏まぬように避けて、その後をただ追いかける。
 男が何を嗤ったのか、その時は問うことができずにいた。
 
 
「勝先生、お帰りなさい」
「おう」
京から大坂に戻ると坂本が転がるように駆けてきて、部屋まで雛鳥みたいに付いてくると、頼みもしないのに荷解きまで始めた。
「どうでしたかの?京は」
「相変わらず、めちゃくちゃさ。物騒で敵わないよ」
「でも、御無事でのお戻り何よ…」
 坂本の声が止まったので、羽織を半ば脱ぎ掛けたまま振り返る。すると坂本は荷の中から袴を一枚取り出して固まっていた。面倒な奴に見つかっちまったと思う間もなく、坂本がこちらに詰め寄ってきた。
「先生、これは何ですか!」
「何ですかって…袴だよ。ちょいといい物だったもんで、捨てるに忍びなくてね」
「そういうことでなく!この染み、血でしょう?!」
 目の前に広げられた紺色の袴には、飛び散った褐色の染み。誤魔化し様のないその色。だが、坂本の慌てぶりは小うるさく、思わず片耳を塞ぐ。
「ぎゃあぎゃあ言うんじゃねえよ。俺の血じゃねえ。怪我なんてしてねぇから、触るな!」
 それでも怪我の有無を調べようとする弟子を追いやって、漸く座布団に座った。煙草盆を引き寄せ、煙管に煙草を詰める。
「また、襲われたんですか?」
「そうだよ」
「だから、儂を連れて行って下さいって、あれほど…」
「お前、何のために以蔵をオレの護衛に付けたんだい?あれが役に立ったよ」
 その名を聞いて、坂本は眉を開いた。自分が紹介した同郷の男が役立ったことが単純に嬉しかったらしい。思わず、眉を寄せる。刹那のことだったと思うが、坂本は素早くそれに気づいた。
「…以蔵が…何かしましたかの?」
 さすがに察しがいい。だが恐らく僅かに核心を外している。
「いやね。後で、あれに礼がしたくてね。ちょっと部屋に呼んだのさ」
 
 
 男はいやに澄ました顔で座っていた。礼を言うと、いやいやと謙遜したがやはり何処か心がない。その態度が気に入らず、言わないでおこうと思ったものがついつい口から零れた。
「だがね、お前さん。この間のようなことはこれきりにした方がいい。人殺しってのを嗜むのはやめとくことだ」
 その言葉が終わるか終らないかのうちに、男の顔が嗤った。あの夜と同じ顔だった。
「何だい?」
「いえ。だって、儂が居らんかったら先生の首も飛んじょったでしょう」
 唇を結ぶしかなかった。言い負かしたと思ったのか、それを見て男はまた嗤った。それは最早、嘲笑に近い。
「先生と呼ばれるお方はみんな同じなんですかのう?」
 男の目を見ると、すっと男は視線を逸らす。己より目上の者の目を見てはいけないと幼少の頃から叩き込まれたせいだろうか。ぼさぼさの前髪がその目を隠したが、口元から零れる歯が、男がまだ嗤っていることを伝えていた。
「何が同じだって言うんだい?」
「先生も武市先生も御自分では人は殺さん。なのにいつもあいつはよくない、あれは国を滅ぼすと文句ばかりじゃ。それじゃあ、女子の愚痴と同じですろう」
 嗤うのは持論に自信があるからだ。その自信が無学な男を珍しく雄弁にする。
「殺さんのは殺せんからじゃろう。腕がないきに」
 あの夜、男が嗤ったのはやはり、立ち尽していたこちらのことだったのだと確信した。地面に倒れた男を見て驚愕している姿が、その目には怯えているように映ったらしい。実際、全く怯えていなかったかと言えば嘘になるかもしれない。あの時の動悸は確かに普段のそれとは違っていた。
「俺は元々臆病者なんだよ。だけど、武市さんというお人は剣術家だと聞いているがね」
 そういうと男は一層、笑みを深めた。
「武市先生の剣は道場の剣じゃ。人は斬れません」
「そうかい」
「自分は斬れんくせに、儂を見下しちょるんじゃ」
 その刹那、男の目はちらりとこちらを見たように思った。滑稽じゃのうと、男は心の内で呟いているようだった。
 
 
「以蔵が…そんなことを…」
 ひぇぇと坂本は妙な声を上げた。そして、畳の上に平蜘蛛みたいにへばり付く。
「先生!以蔵は昔から難しいことはよく分からない奴じゃきに。ちっくと調子に乗っとるんじゃ。後で儂からもきつぅ言うておきますんで…」
「いや。あいつはよく分かっているよ」
 火皿を炭火に寄せ、煙草に火を点ける。煙草も随分と久しぶりだった。
「分かってる?何をです?」
「世の中、学者っていう奴らが何の役にも立たねえってことがさ」
「そんなこと…」
「実際、あいつの住んでる世界じゃ役に立たねえ。あいつの中には『いい者は生かす・悪い奴は殺す』って物差しかねぇんだもの。学者ってのはその辺、理屈を捏ねて曖昧にしたがるだろう。だから、俺も『お前さんの言う通りだ』だって、あいつに言ったのさ」
 漸く煙管に火が点いた。ゆっくりと吸って、煙を吐き出す。その煙の向こう側で、坂本が顔を顰めていた。
「先生」
 こちらに意見したがっているのも、その内容も分かった。だが、何か言い出す前に先手を打つ。
「俺が腹を立ててんのは寧ろお前さんの方さ」
 坂本は明らかにぎくりとした。心当たりはあるらしい。
「面倒事を師匠に押し付けやがって。お前、あれだろ?あいつを俺の護衛に推したのは、俺にあいつを何とかしろってことだろ?」
 図星だったらしく坂本は珍しく居心地が悪そうにもじもじとしていた。だが、急に開き直って顔を上げる。
「でも、そこまで分かっておられるなら何でいつもみたいに叱ってくれんかったんです?『馬鹿ヤロー!オメェの言うことは間違ってやがる!』とか何とか」
「マネするんじゃねぇよ、気色悪ぃ」
 坂本の言い様に思わず苦笑は漏れたが、それ以上は笑えなかった。ふうと溜息と煙を同時に吐き出す。
「もう、終わってるからさ。あんなに人を殺しちまったら、今から聖人君子になったとしたって取り返しがつかねえ」
 はっと坂本は突かれた顔をした。が、そう簡単に師匠の言葉を受け入れようとはしなかった。
「でも、以蔵は私欲で人を殺したことはないんです。みんな理屈があって…」
「例えば、お前の大事な土佐の姉やんが、殺されていたとしてもそう言えるかい?」
 この一言で坂本は十分察したようだった。だが、友への情けがそれでも、うんとは言わせない。
「姉やんは勤王とか攘夷とかとは関係ないところにいますきに」
「そうかい。なら、この俺ならどうだい?」
 ぐっと坂本は何か喉に詰まったような顔になった。
「お前さんの師匠が殺されたとしよう。お前は殺した奴の理屈が正しいと思えば、その後、手を取り合って一緒にやっていけるのかい?」
 我ながら酷く卑怯なテを使ったなと思った。案の定、坂本は黙りこくり、何も言えない。
「これは理屈の話じゃねぇ。情の話だ。普通の人間は自分と縁のある人間を殺した奴を受け入れるなんてことはできやしねぇ。だから、人を殺したら御終ぇなのさ」
 ぐうの音も出ないとはこのことだろう。坂本は随分と黙っていた。その小さな目が忙しなく動いているので何か突破口を探しているらしいことは分かった。
 しかし、結局何も思いつかなかったらしく、ただ縋るようにこっちを見た。
「…それでも、どうにかなりませんかの?」
「ならないね」
 放り出すようにそう言ったが、尚も坂本は縋りながら何か探すようにこちらを見る。己の師なら何か秘策があるに違いないと無闇と信じているのだ。
 甘えられるのは嫌いだが、そう根拠なく期待されて悪い気はしない。思わず、表情を緩めたので坂本の顔がぱっと明るくなった。
「一応…テは打ってみたけどな」
 
 
「どうして、これを儂に下されるんで?」
 命を助けてくれた礼にと差し出した短銃を見て、男は顔を顰めた。
「儂にはこれがありますきに」
 男は傍らに置いた大刀を握った。刀を穢されたように感じたのだろう。飛び道具など弱い者が持てばよいとその顔が言っている。
「まあ、そう言うもんじゃねぇ。正直、乱戦なら刀の方が役に立つんだよ。これの良いところはだね、向けただけで相手の動きを止められるのさ。
 臆病者なら銃口を向けただけでも逃げていく。お前さんだって無益な殺生はしたくないだろう?」
 そう言っても、やはり男は興味はなさそうに見えた。
「どうせ使い方も分からんきに」
「俺もねえ、もう大坂に戻らないといけないし、それをお前さんに教授してやるほど暇じゃねえんだ。
 人を紹介してやるから、そのお人に習うといいよ。その人も何かと狙われる人だから、ついでに護衛もしてやってくれや」
 ふと気が付くと、男はじっと短銃に見入っていた。短銃は珍しい舶来の品。どうやら、興味がないワケではなさそうだった。
 口をぽけっと開けて短銃に見入るその顔は初めてシャボン玉を見上げる幼子そっくりで、男の本性が実に素直だということを思い知る。
 いっそ、洋行でもすれば己の見識の狭さにすぐ気がついて、考えを改めるのではないだろうか。
 だが、これまでに犯した罪がこの男が変わることを許さないだろう。
 はっと男はこちらの視線に気づいた。そして、決まりが悪かったのか慌てて頭を下げた。
 
 
「中濱万次郎?!」
「そ。ジョン・万さ。お前らとは同郷だから知ってるだろ?」
 知っているも何も、坂本は当然知っているはずだった。元漁師で幼い頃に海で遭難し、アメリカ船に助られ、アメリカで育った男。咸臨丸に乗ったとき同行していたことも知っているはずだ。しかし、坂本はこちらの意を測り兼ねているようだった。
「何、大したテじゃねぇんだよ。兎に角、面倒な連中とあいつの縁を切っちまえばいいんだ。あいつは自分で考えて人斬りをしているワケじゃないだろう?万次郎は今は旗本だから、旗本の護衛って言やぁ面倒な連中との縁も切れる。まあ、そう考えてオメェはあれを俺の護衛にしたみてぇだが、俺は正直、今、人斬りとは関わりたくねぇんだ。尤も、弟子どもの中にだって全くの潔白とはいかねえ奴もいるけどな」
「は、ははは」
「笑ってるんじゃねぇよ。こっちはこれから幕府の金で海軍操練所立ち上げようってのに、やりにくくて仕方がねぇ。だけど、まあ、万次郎はこっちとはそれほど関係はねぇから」
「先生!そこまで考えて下さって…」
「でも、根本的なところは何一つ変わらねぇよ。やっちまったことは取り消せねぇからな」
「十分です、先生」
 坂本は何か悟ったように微笑んだ。何かとぎゃあぎゃあ騒ぐが、この男にも覚悟はある。
 坂本はきちんと座り直し、深々と頭を下げた。
「有難うございます、先生」
「おうよ」
「すっかり長居になってしまいましたのう。先生、何か喰うものでも用意させましょう」
「全くだ。先にそれをしておくれよ」
 坂本はもう一度丁寧に礼をすると、洗い物を纏めて抱え、立ち上がった。
 やれやれ、やっと静かになると煙を吐く。だが、坂本は襖の前で足を止め、振り返った。
「先生」
「ん?」
「儂は先生は並みのお人ではないと思っちょるんですが」
「当たりめぇだよ」
「なら、先生は先生と縁のある人を殺した人間とも…手を取り合えますかの?」
 ふと見上げると、坂本は否定して欲しそうな顔でこっちを見ていた。
「さぁてな」
 そう答えると、坂本は少し痛そうに笑った。そして、軽く頭を下げると部屋を出ていった。
 遠ざかる足音を聞きながら、こちらも暫し煙草を咥えるのを忘れる。
「そんな顔するなら、訊くんじゃねえよ。馬鹿だな、オメェも」
 俺にはそうする覚悟がある。必要があるなら己の子を殺した相手とも手を取る覚悟が。
 そう、はっきり言えなかったのはやはり何処かで薄情と思われたくないのだろうか。だけど、あいつはこっちの覚悟を知っていて、あんな顔をするのだろう。
 そんなことならすっぱり言ってやればよかったと、珍しく己の怯懦に舌打ちをした。