昼の月はまるで雲の破片のようで、愛でる者は誰もいない。同じく、夜の月を愛でるための観月楼を昼間に訪う者などなく、隠れ鬼の鬼から身を隠すには実に、都合のよい場所だった。
反り返った漆黒の屋根の美しい高楼は、内から見ると欄干を飾る彫刻の牡丹も葉もすっかり色が褪めていた。体の弱い父王が王位を継いでから、あまり使われたことがなかったせいだろうか。寝転がった床もささくれて、ほとんど色は残っていなかった。
幼い頃、発作を起こすたびに周囲の者たちが大騒ぎするのが嫌いだった。薬湯を飲まされ、幾重もの掛け布の中に押し込まれ、香が焚かれる。数刻おきに何か必要なものはないかと尋ねられ、正直、ゆっくりと休めたものではない。幼いながらに軽い発作なら大人しくしていれば治ることを悟ってしまうと、その度、隙を見ては侍女たちから逃げ出していた。
あの日は観月楼の床に転がって空を眺めていた。空は清々しく晴れていたが、どうにも息苦しかった。まるで自分が息をするためだけに生きているような気がして、つまらないなと思っていた。鳥は悠々と空を舞っているのに、己は苦しむために生きているなんて理不尽だった。
遠くに呼ばう声がいくつも聞こえていた。それは隠れ鬼の鬼の声。世継ぎの御子を見失った侍女たちの声だった。彼女たちにしてみれば、遊んでいるつもりなどあるはずもない。声は必死さを帯びていたが、声は次第に遠くなり、やがて聞こえなくなった。こんなに苦しんでいる主を見つけられないなんて、忠誠が足りないのではないか。胸がぜえぜえと鳴る音を聞きながらそんな勝手なことを思っていた。
発作はなかなか治まらなかった。まだ日は十分に高かったが、風が僅かに冷たさを帯びてきた。発作が酷くなれば大騒ぎが嫌いなどと言ってはいられなくなる。なのに侍女たちの声は全く聞こえない。もしかして、彼女たちは主を探すのを諦めて普段の仕事に戻ってしまったのだろうか。そんな考えがちらと頭を掠めた。
さすがに恐ろしくなってそろそろと体を起こし始めた頃、唐突に、階下でぎしりと軋む音がした。
慌てて立ち上がり、手摺を掴んで階下を見た。人影がこの高楼へ入ってくるところだった。苔むした飛び石の上に翻る白っぽい布の先だけが見えて、人の姿そのものは見えなかった。だが階段を一つ一つ上がり次第に近づいてくる足音が、間違えようもなく男のものであることを告げていた。ぎしりぎしりと階段が軋み、同時に鎧を鳴らす音が響いてきたのだ。
がちゃがちゃと金属の触れ合う音は次第に近づいてくる。焼け付くような緊張に、益々、呼吸が苦しくなった。王城内なのだから、誰であれ、自分を傷つけたり怒鳴りつけたりするとは思っていない。ただ知らない人間と一対一で顔を合わすのが嫌だった。馬鹿馬鹿しいことだが、知らない人間と対話するのは成人した今となっても好きではない。
じっと息を潜め階段の登り口を見つめた。すると最初、黄金色の光が見えた。
一瞬、光が射したのかと思った。けれど、それは違った。階段を上ってきた人物は黄金の髪をしていたのだ。
思いもしない人物だった。だが、知らない顔でもなかった。思わず呆然とその姿を見上げた。金の髪。恵まれた体躯。金の鎧と銀の外衣。その人はこちらを見ても別に驚く風でもなく、にっと笑って見せた。
あっけらかんと笑う。獅子の風貌をしているのに、それは明らかに幼子を甘やかす笑みだった。
「…天龍」
彼は少し気取った風に外衣を背後に払いのけて、跪いた。自分の二倍はありそうな巨躯が足元に跪いている様子は酷く居心地が悪かった。
「名前を憶えていただいていて、光栄です。世継ぎの御子様」
「誰だって知っているよ。お前は大将軍だもの」
晨国武門筆頭、龍の一族の若き長。この国の全ての軍を統括する大将軍。この国に住む者で彼の名を知らぬものはなく、ましてやこの都に住む者ならその恵まれた容姿を知らぬはずはなかった。国境に住まう蛮族との大きな戦がある度に、彼は壮麗な軍列を率いて出陣し、そして必ず同じ行列を率いて帰ってくる。その時、都大路には人々が溢れ、皆、必ず馬上の彼をほうっと息を吐いて眺める。王宮に上がれば上がったで侍女たちが大騒ぎだった。
だが、自分が彼を知っていたのは、彼がこの国の誰もが知る者だという理由からだけではなかった。もし彼が一介の兵卒に過ぎなかったとしても、自分は彼を知っていただろう。
「それに…お前は母上縁の者だ」
そう言うと、天龍はほろ苦く微笑んだ。その笑みは父や侍女たちが時折見せる表情と同じだった。
「そうですね。私の妻は御子の御母上の妹ですから」
幼い頃に母親を亡くした子は哀れなものだと、大人たちの目は語る。その目が自分は哀れな存在なのだと教えている。もしその目がなかったら、母親のない悲哀になど気づきもしないのではないだろうか。だって、母親がいたという記憶そのものがないのだから。
掛ける言葉を見つけられないのか、ただ笑う天龍を呆然と見上げて、つと思いついたことを口にする。
「…母上はお前の妻に…なればよかったのに」
ぎゅっと襟の前を掴みながら言うと、天龍が一瞬、ぎょっとしたような顔になった。
「何故、そのようなことをおっしゃるのです?」
「お前の子に…生まれれば、きっと丈夫に…生まれていただろう?」
急に動いたせいだろうか。胸は忙しなく上下している。唇から洩れる息はもう誤魔化しがきかないほどに乱れていた。
天龍は眉間の皺を一層深くした。あの時は彼がそんな表情をしたことなど気にも留めなかったが、今は彼の困惑が分かる。彼は今は亡き父王とも親しかったのだ。それなのに、その幼子にお前の子になりたかったなどと言われれば、困惑するのも当然だ。
「御子。失礼いたします」
そう言って天龍は膝を進めると大きな手で背を擦りだした。苦しいとき侍女たちがよくやってくれるのと同じことだったが、天龍の手は大きく、硬かった。
「…お前はどうしてここにいるんだ?私を探しにきたのか?」
「御子を探していた訳ではありませんよ。偶々、通りかかっただけです」
天龍は背中を擦りながら答えた。
「何か大事な…儀式があったのではないのか?」
天龍は少し驚いたようだった。
「どうしてそうお思いに?」
「だって、お前が正装をしているから」
「…御子は賢くていらっしゃる」
天龍はちょっと悪戯っぽい目をした。
「御子と同じです。嫌なことがあって隠れているのです」
子供のような言い様に却って戸惑う。自分が子供だから合わせているようにも、天龍が本来そんな子供っぽい人間のようにも思えた。
「嫌なことって、どんな…?」
天龍は言いたくはないようだった。ただ黙って少し笑っていたが、そのとき遠くで鐘の音が響いた。深く響くその音を天龍はふと手を止めて聞いていた。
「出立の鐘だ」
そう言うと天龍は目だけで笑った。
「お前、出立の儀を抜けてきたのか」
「まあ…そんなところです」
少し肩を竦めて、武門の長は答えた。
「お前…戦が嫌なのか?」
「御子。それは、私に生きるのが嫌なのかと問うているのと同じですよ」
天龍は曖昧に答えた。
「さて御子。どういたしましょうか。あの鐘が鳴ったということは、出立の儀が終わったということです。すぐに龍の者が私を探しにくるでしょう」
誰が己を探しにくるのか、とおに知っているような横顔だった。
「ここにいれば共に見つかってしまいますが、よろしいですか?」
「ここにいれば、見つからないよ」
「龍は隠れ鬼の鬼が得意なのですよ。私も直ぐに御子に気がついたでしょう?」
そう言って、こちらを見て微笑む。その笑みが隠れ鬼はもう終わりなのだと告げていた。迎えが来たら天龍はここを去らなければならないし、まさか世継ぎの御子を一人置いたまま去るわけにもいかないのだ。
「…分かった」
母に所縁のこの男を、我儘を言って困らせる気はなかった。彼の差し出した手に手を重ねる。その手は繋ぐには大きすぎて、人差し指と中指をまとめて握って丁度よかった。
観月楼を出て庭園を行く。天龍は幼子を気遣ってゆっくりと歩いているつもりのようだったが、それでも彼の一歩は大きく、時々小走りにならなければついていけなかった。池に沿って大きく湾曲する小道を歩きながら、斜め前を行く彼の横顔を見上げて問うた。
「…母上はお前の妻に似ているか?」
天龍はやはり気の毒そうに笑った。
「ええ。私は御子の御母上にはお会いしたことがありませんが、一つの宝玉を二つにしてそれぞれを磨き上げた耳飾りのようだと言われておりましたよ」
「そうか」
それ以上、問うことはなかった。ふと視界に入った石畳が嫌に湿って、苔むしていた。
「…お目にかけましょうか」
天龍が何気ない調子で言った。見上げるとその琥珀の目がこちらを見ていた。彼の好意に飛びつきそうになったが、躊躇した。
「いい」
「…臣下の妻女に会うことを禁じられているからですか?」
相変わらず天龍は何でもないことのように続ける。
「そうだ」
王族が臣下の妻女に会うときは、その者を己の妻とするときだけと決められている。古の王が臣下の妻を奪い、その臣下が反乱を起こしたためだった。
「そんなことは何とでもなるものですよ」
武門の長らしからぬ調子で天龍は言った。その調子にぐらりと気持ちが揺れたが、やはり首を振った。
「やっぱりいい。お前に迷惑をかけるし、本当の母上に会えるわけではないから」
「そうですか」
天龍は少し寂しげな目をした。
「…お前の妻は美しいか?」
会わないと言いながら、そんなことを問う。すると天龍は大人げないほどの笑みを見せた。
「それは勿論」
御母上は美しい方でしたよと、今まで幾人もの人に言われてきた。だが、その男の笑みがそれらの人々が言ってきたことが真実だと何よりもはっきりと告げていた。もし許されるならば、この男は己の妻を皆に見せびらかして歩きたいに違いない。
池から逸れて、世継ぎの御子の宮である啓明殿へ続く道へと進むと、先の方から薄青の衣を着た侍女が駆け寄ってきた。
「御子!何処に行かれていたのですか!?」
はしたないほど衣を捲り上げ、髪を乱して駆け寄ってくる。思わず天龍の後ろに隠れようとしたが、天龍の手はそれを許さなかった。そっと彼女の方へと押し出される。
「飛燕…」
「心配したのですよ。もう…これ以上、抜け出すようならお部屋に閉じ込めてしまいますからね!」
安堵と怒りとがない交ぜになっているのだろう。大きな目の目尻に涙を溜めながら怒鳴る姿を見上げていると、隣で天龍がこほんと咳払いをした。はっと弾かれたように飛燕が顔を上げる。
「それくらいにして差し上げてはどうかな、飛燕殿」
「…天龍様。これは…失礼しました」
飛燕は頭を下げた。耳まで真っ赤になっている。相手が天龍でなかったら、こんなに真っ赤になっただろうかなどと、ぼんやり考えた。
「御子も男子だからね。奥の生活は退屈だろう」
いつもだったらこんなとき、飛燕はきっと眉毛を逆立てて反論する。目上の者にだってお言葉ですが!と言い返すのが彼女の性だ。それなのに、今日は顔を真っ赤にしてもごもごとそうですね…などと呟くだけだ。
「御子。今度はいずこかへ遠出をいたしましょう。お父上にもお話しておきます故」
言いながら天龍は手を離した。空いた手を飛燕が素早く捕らえる。顔は相変わらず赤いけれど、折角見つけた主にまた逃げ出されてはかなわないと思ったらしい。痛いほど手を握りしめながら、飛燕は再び天龍に頭を下げた。
「御子を連れ戻していただいてありがとうございました。お陰で助かりましたわ」
「いやいや。御子はご自分でお帰りになりたいとおっしゃったのですよ。それでは御子。失礼いたします」
天龍は右の拳を左の掌に当てて頭を下げ、銀の外衣を翻しながら踵を返した。ほうっと溜息を吐きながら、飛燕はその背を見送る。何か一言、その背に声をかけた方がいいだろうかと思いながらじっとしていると、やがて別の道から彼を呼び止める者があった。
「天龍様!」
ぎくりとしたように彼は止まる。
「ああ…蛇目」
「どちらへ行っていらしたのです?」
姿を見せたのは明らかに天龍の一族の者だった。背は天龍ほどではないにしても高く、肩幅は天龍と同じくらい広かった。天龍と同じ金の髪をしていたが、ずっと鋭い目をしていた。その男が冷やかに天龍を尋問していたが、天龍はへらへらと笑ってその視線を受け止めていた。
「御子。行きますよ」
飛燕が手を引いた。残りたいと言うこともできず、飛燕に引かれるままについていく。耳だけはじっと背後の会話に残しながら。
「何。ちょっとな」
「ちょっとな、ではありません。龍の長たる者が出陣の儀をすっぽかすなど前代未聞です。いくら王と親しくなさっているとはいえ、御自分の立場を弁えていただかなければ…」
「それで?王は何とおっしゃった?」
天龍の声には自信があった。自分が王に罰せられることはないと思っているようだった。反対に蛇目と呼ばれた男の声は忌々しげだった。
「…王は気が利かず、悪かったと」
「そうか」
天龍は笑ったようだ。
「皆、家の者を郷里に置いて戦いに行くのです。それを…子と離れたくないからといって、出陣を拒むだなんて…」
実に何でもない言葉だったのに、何故かそれは胸に刺さった。背中に短剣でも投げつけられた気分だった。
「何を言う。懐いたばかりなんだぞ。この間まで俺が誰だか分からなくて泣いてばかりいたんだ」
「それが我儘だと申し上げているのです」
「…御子?」
いつの間にか歩みが止まっていたらしかった。飛燕が不思議そうにこちらを覗いてくる。
「どこか、お加減でも?」
「…違う」
急いで足を踏み出した。背後の声は次第に遠くなる。
「俺は天龍だ」
誇らしげな声。
「これくらいの我儘は許されて然るべきだろう?」
傲慢な言い様。当然、蛇目は反論するかと思ったがその声はなかった。苦虫を噛み潰すような顔をしているのだろうと想像できた。
暫く黙って歩いた。もう声は聞こえず、背後に人の気配さえなかった。
胸がむかつく。どうしてなのか、自分でも分からない。胸が痛んで、そこから黒い何かが広がっていくみたいだった。
「…ねえ、飛燕」
「何ですか?」
答えた彼女は少し優しかった。世継ぎの御子の具合が悪いものと思ったらしかった。きっと宮に戻ったら薬湯を飲まされるに違いない。
「天龍の子は天龍に似ているのだろうか?」
飛燕は何度か目を瞬かせた。
「それは親子ですもの。きっと似ていらっしゃるでしょう」
ちりっと再び胸が痛む。だが、それがどうしてなのか。そのときはまだよく分からなかった。