雨季の前の一月は、晨の都で最も美しい季節だ。
空はいつも雲一つなく澄んでいて、雨などほとんど降らない。都大路の両側に植えられた柳の木は淡い新緑から艶やかな緑に変わり、また頻りに柳絮と呼ばれる綿毛を飛ばす季節でもある。雪のような綿毛は乾いた風に石畳の上を転がりながら縺れて、また空へと運ばれていく。朝の光は透明で暖かだが、風はひんやりと冷たかった。
都大路は都の入り口である『昃大門』から王城の玄関である『昂大門』までを真っ直ぐに結んでいる。大路の両側には路肩まで庇の突き出した商店が並び、柳の街路樹の下には必ずと言っていいほど都の外から来た者たちが露店を広げていてどちらも素晴らしい賑わいだ。頻りに湯気を上げる蒸篭。羊の肉を一昼夜かけて煮込んだ湯(スープ)の香り。冷たい井戸水で冷やされた甘茶や色とりどりの揚げ菓子などは勿論のこと、糸のように細かい細工が施された貴金属や日用に使う食器類まで。都大路では酒楼や娼館などを営むことは禁じられていたが、その賑わいは夜半まで続いた。
王城付近はまた違った趣だ。王城周辺には諸侯の邸宅や役所が建ち並び、商店は無論、露店を出すことも禁じられているのだ。それでも、王城に出入りする者たちや諸侯に仕える者たちなど行き来する者は多く、いつもはそれなりの賑わいは見せていた。
しかし、今日の都大路は違っていた。『昂大門』の前の広場から遥か遠く『昃大門』の彼方まで、つまり都大路の端から端まで多くの人が詰めかけているにも関わらず、大路にはさわさわと囁くような物音しかなかった。客を呼び込む声も少しでも安値で買おうする客とそうはさせまいとする店主の攻防も聞こえない。大路の両脇に並んで押し合い圧し合いしている者もいるが、祭のときのように怒号が飛び交うこともない。柳の長い枝が黒髪のように揺れる音と蒸篭の湯気の音。売り物の鶏がこっこと鳴く声や、この異様な静寂に耐えきれない幼子の愚図る声なんかが時折響くだけで、あとは漣のような囁きや吐息だけしか聞こえなかった。
王城に近い者たちは皆、息を詰めるようにして『昂大門』を見つめている。門はその門前の広場とは川で隔てられ、その川に架かる橋の向こう側にある。反り返る漆黒の屋根に紅い柱の楼閣を備え、黄金の扁額が飾られた壮麗な門だった。王宮はその門の背後、小高い山の上にあって、門と同じく反り返った漆黒の屋根が木々の間に見えていた。山の緑に漆黒と紅はくっきりと映え、特にこの季節は鮮やかだ。
不意に鐘の音が細やかなざわめきを破った。雲のない空によく響いて、都そのものが体を震わせているようだった。それは城壁の四隅にある角楼で鳴らされる、出立の鐘の音。王族や諸侯などが都から出立することを知らせる鐘で、それが鳴るとこうして都大路に見送りの者が集まるのだ。しかし、今日はその鐘が鳴る前から人々は今か今かと大路に詰めかけていた。それだけ、今日の出立が彼らにとって特別なものだった。
『昂大門』には三つの扉があった。中央の扉が最も大きく、漆黒で、黄金の鋲が打たれており、同じく黄金で瑞雲の紋様が描かれている。残り二つは、鋲は打たれているが紋様は描かれていない簡素な扉だ。
まず、両脇の二つの扉がゆっくりと開いた。扉の向こうには、純白の衣を着た十歳くらいの少年がそれぞれ佇んでいた。兄弟なのだろうか。背恰好がよく似ていた。髪は黄金、目は琥珀。どちらもこの国には珍しい色で、彼らがある一族に属していることを示していた。髪は都人のように伸ばしたり結い上げたりしていることはなく、短く刈られ、代わりに額に巻いた布が風に舞っている。真っ白な衣に帯だけが漆黒。彼らはゆっくりと敷居を跨ぎ、城門と広場とを繋ぐ橋を渡った。
広場に降り立つと、彼らは歩きながら、手にした籠の中身を撒き散らし始めた。それは白い花の花弁だった。大きめの花弁が柳の綿毛とともに風に舞い、大路の石畳の上を転がっていく。白は清浄の色。都大路を彼らは浄化しながら進んでいく。それを見る人々ははっとしたように神妙な面持ちになり、ざわめくのをやめた。中には両手を合わせる者さえいる。少年たちが進むたび、沈黙は広がっていった。
少年たちの後に、白衣の上に鎧を纏った男たちが続く。髪は黄金で、やはり短く刈っていた。皆、背が高く隆々としており、それぞれが旗を掲げている。白、黒、赤、青。二つの扉から現れた四色の旗を掲げた男たちは、やがて大路で交わり隊列となった。
花弁と綿毛の雪の中を歩むような行列は殊更にゆっくり進んでいった。しかし、その隊列は一筋も乱れることはなかった。群集は何か神聖なものが通り過ぎるのを見るように、ただただ沈黙して壮麗な行列を見つめていた。
その行列を見つめているのは、都大路にある者だけではなかった。王城からも、真っ直ぐ伸びる都大路とそこを行く行列とを眺めることができた。
山の中腹には『羲和殿』と呼ばれるこの国の政が行われる建物があった。その最奥の最も高きところには、漆で塗られ金の装飾が施された玉座が置かれていた。王はそこに悠然と腰を下ろし、遥か眼下の行列を眺めていた。
王は長身で、痩せていた。肌は黒く、顔立ちも無骨で全く貴族的ではない。それもそのはずで、母は婢女で本来なら王になるような身分ではなく、若い頃は戦場を駆け回っていたのだ。兄王の死によって王位を継ぎ十年近くになるが、今ですら豪奢な衣を着るのは窮屈そうに見えた。年の頃は四十前。黄金の王冠が重いのだと言わんばかりに頬杖をつき、その薄い唇には薄らと笑みが浮かぶ。
それは確かに笑みだった。行列を眺める民も王の御前に控える家臣たちも祈るように神妙だというのに、王は微かに笑んでいた。今は笑みを浮かべるような場ではないと王自身分かっているのに、それでも唇の端が歪むのを抑えられないというような笑みだった。
「美しい行列だ」
ついに王は口を開いた。豪胆な王は誰も自分を咎められぬことを知っていた。
「そうは思わぬか?世継ぎの御子よ」
王は己の一段下に座る青年に声をかけた。長い黒髪を背で結わえた青年は、ちらりと王を振り返り素気なく答えた。
「ええ」
その取り澄ました横顔を、王は可笑しそうに笑った。その笑みを世継ぎの御子は軽蔑したように見遣り、また視線を遥か眼下へ移した。
世継ぎの御子。即ち、王亡き後、この国を治める者であった。しかし、彼は王とは多くの点において対照的であった。
日に焼けたことがなく、白を通り越して青ざめてさえ見える肌。鼻筋の通った華奢な顔立ち。背筋を伸ばしてじっと身じろぎもせず、その横顔には何の感慨も浮かんでいない。正しく、王族の義務のためだけにその座に座っているようだった。その白々しさが王は気に入らないようで、再びその横顔に声をかけた。
「それによく晴れている。おぬしはこの空が呪わしいのではないか?」
「…何故です?」
御子はもう殆ど振り返らなかった。
「おぬしは天龍と親しかったではないか」
御子は一瞬の間を置いて答えた。
「そのようなことはありません。子どもの頃、幾度か会っただけですよ」
また鐘が鳴り響いた。同時に『昂大門』の中央の扉がゆっくりと開き、群集の中から驚きの声が上がった。その声が耳に届き、御子が不可解そうに眉を寄せる。御子が座る場所からでは門扉の様子が見えないのだ。しかし、その理由を知る王はにやりと笑んだ。
「中の扉を開けたのだよ。まさかあれに道の端を歩かせる訳にはいくまいて」
御子は意表を突かれた表情で王を振り返った。御子の動揺が王は心地よいらしく、益々唇の端の笑みを深めた。
「何を驚いておる。わしとて、あれに敬意を抱いておるのだ。雲英など大反対だったがな」
「恐れながら」
王の口から出た名に素早く反応したのは、玉座の下に並んで座る文官たちの内、最も王の近くの床に座っている老人だった。体を曲げると白髪交じりの顎髭が床に着くほど長かった。老人は国の宰相で、居並ぶ文官たちの内、最高位の者であった。
「我が倅はただ先例のないことと申し上げただけでございます。中の扉は王かまたは王家に連なる方々だけが通る扉と定められておりますれば」
老人の後ろに一人の青年が身じろぎせず座っていた。その青年こそ、先ほど王の口に名が上った者であるが、悪びれた様子は少しもなかった。寧ろ彼の養父である宰相の方が何処か慌てて見えた。
「分かっておるぞ、宰相」
王は悠然と言った。
「雲英は私心でどうのこうのと言うような者ではないわ」
王が視線を投げると切れ者らしい目つきをした王の側近は、黙って礼を返した。彼は宰相の養い子ではあるが、父親の権威によって王の側に上がった訳ではなかった。寧ろ、彼が王に気に入られたからこそ、養父が宰相になったと言える。彼はこういう場では殆ど口を利かず、まるで片隅の影のように気配を消している。余計な口を利かぬところが王が彼を気に入っている所以でもあった。
そうこうしている間にも、行列は黙々と進んでいた。世継ぎの御子は傍らの会話にも耳を貸さず、ただ遥かな都大路だけを見つめていた。
やがて、開かれた中の扉から一人の少年が門前の橋の上に降り立った。やはり黄金の髪をしていたが、玉座からその瞳の色を確かめることはできなかった。しかし、王も世継ぎの御子も、居並ぶ文官たちもつい先ほど、この広間でその少年の顔を見ており、彼が琥珀の瞳をしていることは知っていた。
しんと静まっていた群集が、その少年の登場によって再びざわめき始めた。先ほど、中の扉が開かれたときとは違う種類のざわめきだ。そのざわめきの中を少年は真っ直ぐに進む。白い衣に漆黒の鎧を纏い、銀色の旗を持って堂々と歩んでいる。銀の旗には金糸で龍の紋様が刺繍されており、風に舞っていた。相当な重量と思われるが、少年の両腕は微動だにせずそれを支えている。
「五体満足で、よく鍛えてあるように見えたがな」
王が顎に手を当て呟いた。
「あれで臆病者で、とても戦場には出せぬというから残念なことだ。天龍の血を引く唯一の子だというのに」
王の言葉に足下の文官たちは互いの顔を見合わせた。世継ぎの御子はまるでそんな話には興味がないとでも言うように、都大路から目を逸らさない。
「恐れながら、それは龍の偽りではないでしょうか」
文官の一人が声を上げた。
「先ほどここへいらしたときの受け答えも堂々としており、実に御立派な様子。とても噂通りの少年には見えませんでした」
何人か賛同の声が上がり、王もふむと頷く。
「しかしそれは、あれの父が話した訳ではない。あくまで噂だ」
「龍を貶めるために悪評を流している者がおるのやもしれません」
「しかし、火のないところに煙は立たぬと言いますからな」
「狼や虎の中にも天龍殿が御子息を戦場に立たせぬと言っているのを、聞いている者がおるそうですよ」
王の側近たちが噂話に夢中になっているうちに、少年に続いて中の扉から隆々とした男たちが次々と現れた。今まで都大路を歩いて行った誰よりも見事な体躯をした男たちだ。彼らはその肩に純白の、棺を抱えていた。
側近たちのお喋りに耳を傾けていた王の目が、すっと細められた。王の顔色を読むことには長けた王の側近たちは、即座に口を閉じ、王と同じ方向を見つめた。
透明な光の中を、白い棺はまるで船のように揺れながら進んでいく。棺の上にかけられた銀の旗が、棺が揺れる度にちかちかと光を弾く。都大路に詰めかけた群集が呻くような声を上げた。その中の誰一人、想像もしなかった。幾度もこの大路を誇らしげに歩んでいた大将軍が、このような姿で帰ることがあろうとは。
龍の長、天龍。晨の国の武門筆頭、大将軍である。彼は若き日より蛮族の侵攻からこの国を守ってきた。彼自身がこの国の防壁であり、砦であったのだ。彼の死は即ち、この国が異国の脅威に晒されていることをまざまざと感じさせるものであった。
しかし、民が嘆く理由はそれだけではなかった。それ以上に、彼らはあの獅子の面影を持つ美丈夫を失ってしまったことを嘆いていた。幾度、馬上の彼を溜息と共に見送ったことだろう。幾度、歓声と共に彼を出迎えたであろう。人は必ず死ぬものと分かってはいたものの、まさか彼が死ぬとは思わなかった。ましてや、戦で死ぬとは。
「…死してなお、素晴らしい人望よ」
頬杖のまま王が呟く。その声音には何処か嘲るような感じが滲んでいたが、誰も触れることはなかった。唯一人、世継ぎの御子を除いては。
「これでよろしかったのでしょう。王は二人も必要ないですから」
さっと王の頬に明らかな赤みが射し、そのぎょろりとした目が世継ぎの御子を睨みつけた。まるで若き頃、戦場にあって敵を睨みつけたときのようだった。
王宮内はしんと静まり返った。王の側近たちは世継ぎの御子の言葉を聞いていないふりをした。王は唇の端をわなわなと震わせながら、手の指を握り込んだ。
「翠雨」
押し殺した声で、ただ御子の諱を呼んだ。王の憤りに御子はただ薄ら微笑んだ。
「…実に美しい空です。まるで王の御心をしたようですね」
そう言いながら御子は席から立ち上がった。葬列は都大路を遥かに進み、その先頭は丁度、王城と『昃大門』を結んだ線の真ん中まで来ていた。棺は既に殆ど白い点にしか見えない。そんな光景には興味を失ったと言わんばかりに、御子はそちらへ背を向け、王の前に跪いた。
「王。恐れながら、聊か体調が優れませぬ故、退出をお許しください」
王は怒りを残した顔で世継ぎの御子を見た。だが、今ここで怒鳴りつける訳にもいかず、王は王に相応しくない言葉で御子の申し出を認めた。
「勝手にしろ」
「有難き幸せにございます」
御子は深々と頭を下げると、自分の名と同じ翡翠の色の衣を翻しながら王に背を向けた。王の側近たちが額づく中、御子は王の御前から退出した。
出立の鐘が鳴る。遥か遠くで『昃大門』の漆黒の扉がゆっくりと開き、この国で最も優れた武人であった男の葬列が都を去るのを待っている。柳の木が揺れ白い柳絮が舞い、その中を壮麗な葬列が進む様を、残された王は頬杖を付いたまま憮然として眺めていた。