世継ぎの御子が住まう『啓明殿』は十年が一日のように変わらない。神経質な壁の白さも、繊細な柱が黒く光る様も。加えて庭の木々が深いせいか、いつも静かだ。例え都大路が春を祝う祭りで賑わっていようとも、政が切迫しようとも、大将軍が死んで何となく国中に不穏な空気が流れていようともこの宮殿は忘れ去られたかのような静けさだった。
その庭は元々、御子の父である先代の王が世継ぎの御子だった折に作らせたものだった。若き御子が住まう宮殿にしては鬱蒼としており、隠遁する翁が住むようなところであったが、同時に計算し尽くされた美しさをもっていた。奇岩が山を模り、小川が流れ、木々が翡翠色の葉を頻りに揺らし、木陰ではそっと蘭の花が咲いている。他にもこの庭には名も知れぬ花がいろいろと四季折々に咲くが、御子は一度もそれらの花が朽ちているところを見たことはなかった。敷石が敷かれた小道を歩んで庭を巡れば、森羅万象の美しい点だけを見て回れるように作られているらしかった。
御子は窓辺の寝椅子に座ったまま、そんな庭を眺めていた。丸い窓の直ぐ外には池が広がっていて、手を伸ばせば水面に指先が届きそうだった。睡蓮の花が咲いて、池に注ぐ小さな滝が起こす漣に小さく揺れている。
この美しい庭もまた変わらない。ここに訪れる変化は四季だけだ。それとて暦が一巡すれば、また同じ季節が巡りくる。どんなに記憶を探ろうとこの季節の庭は、常にこの姿だ。
それなのに、人というものは、どうしてこんなにも変わってしまうのだろう。
「…御子。少しお散歩にでも出られてはいかがですか?」
茶の準備をしながら侍女が言う。白い頬の美しい女性で、その立ち姿は首の長い白磁の花生けに似ていた。美しいが凛と冷たい。真夏にその肌に触れたら心地よかろうにと思わせる。しかし、御子に対しても笑顔一つ向ける訳でもなかった。
「天龍の葬儀から一歩も部屋を出ていらっしゃらないではないですか」
御子はすいと目を細め、変わらぬ庭から女へと視線を移した。女の白い手が青磁の茶碗に琥珀の色の茶を注いでいる。茶からは湯気が立っておらず、それが水出しの茶だと知れる。
「…お気持ちは分かりますけれど」
決まり文句を侍女は言う。呼応するように御子の唇から皮肉が落ちる。
「私のどんな気持ちが分かると言うんだい?」
こんな皮肉を言われれば、普通少しはたじろぐだろう。しかし女は澄ました顔で急須を置きながら答えた。
「天龍様が亡くなられてお辛くていらっしゃるのでしょう」
「どうして?」
「あの方は御子を色々と気遣って下さいましたから」
「見舞いの品とか、祝いの品のこと?そんなのあれが勝手にやっていたことだよ」
別の侍女が淹れられた茶を盆に載せて、運んできた。茶碗はじっとりと冷たく汗を掻き、ふわりと花の香りがした。しかし御子は、それに口を付けることなく、そのまま傍らの卓子に置く。
「はっきりと言うがいいよ。あれは私の義理の叔父だからだって」
最後の後ろ盾を失って心細いだろうとはっきり言えばいい。暗に御子はそう言ったのだが、茶を淹れた女は濃い紅を引いた唇を真横に引いただけだった。それはもしかしたら、笑ったのだろうか。
「そのことはお忘れなさいませ」
女は茶器を拭きながらそんなことを言う。あまりの言い様に、御子の笑みは皮肉を通り過ぎて、嘲りを含んだ。
「そのことと言うのは、私の母が謀叛人だということか?」
周囲の侍女たちは明らかにぎょっとした。しかし、八年前から御子に仕えている鉄面皮の侍女頭は、眉一つ動かさない。珪花とは実に相応しい名だった。
「御子の御母上が謀叛人だなどとは申しておりません。八年前、鳳の一族が謀叛を起こすずっと以前にお亡くなりになっているのですから」
「だが、母上の父上は処刑されたよ。謀反の一族は九族まで罰せられるのが常だから、母上は勿論、この私だって咎人じゃないか」
「御子は王家の一員でいらっしゃいますから、関わりなきことです」
御子は傍らの卓子に手を伸ばした。やはり茶碗には手を伸ばさず、代わりに菓子鉢の揚げ菓子に手を伸ばした。それを小さく齧りながら御子はふと考え込んだ。
そう、八年だ。この宮殿は何一つ変わらないのに、ここにいる人間たちは何もかもが変わった。全ての始まりはその前年のことだった。病弱だった父王の死んだのだ。そして、世継ぎの御子が幼いことを理由に叔父が王位についた。その翌年、亡き母の一族、鳳の一族が謀叛の罪により殲滅させられ、御子の身の回りの世話をしていた者達も一人残らず入れ替えられたのだ。まだ、十二歳の少年に過ぎなかった御子にとっては、この世の全てが入れ替わったくらいの出来事だった。
御子が幼い頃から仕えている者であれば、こんな日に冷たい茶を用意したりはしない。晴れてはいても風が冷たいこんな日に、御子は指先などの体の末端が冷えてしまうのだ。胃の腑の調子だって悪くなる。だが、御子はわざわざそれを伝える気にもならない。以前の者達は言わずともそれを知っていたのだ。
あの日まで己に仕えていた飛燕という名の女をふと思い出す。五月蠅いほど快活だったあの女はしかし、よく気の付く侍女だった。茶などいつも御子の体調に合わせて用意させていたものだったが、果たして彼女は今、何処にいるのか。生きているのかどうかさえ、御子は知らなかった。
「そう言えば…あのとき、鳳の一族と関わりがある者で罰を受けなかったのは私と天龍だけだったけね」
ふと、思いついたように御子は言った。しかし、その言葉に答える者はなかった。白磁の女は何処か慰めるように、また噛んで含めるように言った。
「天龍様のことでお気を落とされていらっしゃらないとおっしゃるなら、御子は…どうしてあの日以来、部屋に籠られているのです?」
「ああ…」
急な話題の転換にちょっと戸惑いつつ、御子は答える。
「待っているのさ」
「待って?何をですか?」
謎めかして御子が笑った。しかし、答えようとした刹那、同時に廊下を歩む足音が聞こえてきた。
「失礼いたします」
まだ、少女のような侍女がふわりと部屋の入口に跪いた。御子に仕える者ではない。薄紅の衣を纏い、何処となく柔らかな少女だ。
「桃霞様よりお見舞いの品を届けに参りました」
「まあ。さすがによくお気のつくこと」
今まで凍りついたような空気だった部屋が、急に華やぐようだった。今までの不穏な会話から逃れられるという解放感もあったが、それ以上にその『桃霞』という名がそういった華やかさを持ち合わせていた。その名の通り、淡い桃色の気配がぱあっと漂うのだ。ただ一人、御子だけが苦く笑った。
「まさか、あの姫の考えじゃないよ。あれは頭の中まで糖蜜でできたような女だからね」
「御子。また、許嫁の君のそのようなことをおっしゃって…」
「さて、その約束だってどうなることやら。王が今更、私と一人娘の縁を結ぼうと望まれるとは思わないけど」
「そのようなこと御座いませんよ。御子と姫様が夫婦となれば王家は御安泰ではありませんか」
「お前は本当にそういう偽りをぬけぬけと言うんだね」
淡々と話す珪花をそう詰りながら、御子は戸惑う少女から、まずは文を手に取った。
「おや。文は本人が書いたようだ。側の者が書いてこの字だというなら、あまりに酷いからね」
「桃霞様の筆運びは最初、御子が教えられたと聞きましたが」
御子はちょっと驚いて、珪花を見た。
「よく知っているな。お前が来るより前の話なのに」
「存じ上げていることもあるのですよ」
なら、茶の淹れ方くらい覚えてほしいものだと思ったが、やはり御子は口にはしなかった。
「昔のことだ。幼くて、愚かだったんだよ。尤も姫の方はあの頃と、そう変わってないようだけど」
文には流麗とは言い難い文字で、天龍の死に対する哀悼と慰めが記されていた。遠くから天龍の姿を仰いだことしかなかったけれど、素晴らしい美丈夫だと思ったということ。金の髪が日に照り映えて美しかったこと。彼を失って、姫も周囲の者も嘆いているということ。それは、稀代の名将を失ったという理由だけではなく、御子の嘆きの深さを想うからだと。
「…そんなに私は天龍を慕っているように見えたのかな」
文を元のように畳もうともせず侍女へ返しながら、御子は苦笑した。
「と、いうよりは天龍様が御子に気を遣われているように見えましたが。具合が悪いときなどは何処からか聞きつけて、果物など贈って下さったではありませんか」
「…そうか」
ふと、御子は何か考え込むようだったが、今度は見舞いの品を開けるよう促した。
珪花が漆塗りの箱を受け取り、中を改めた。
「まあ、素敵な杯ですこと」
そう呟き、御子の方へとそれを持ってきた。興味のなさそうな顔をしていた御子も、持ってこられた物をじっと見つめる。
「へぇ。面白いものを寄越したね」
御子は無雑作に手を伸ばし、差し出されたそれを受け取った。
それは翡翠の色をした玻璃の杯だった。脚と台は銀で出来ており、繊細な細工が施されていた。御子は窓を振り返り、杯で光を透かし見た。翡翠色の影が御子の顔に落ちる。
「お気に召したようですね」
「うん。あれが選んだのだとしたら、珍しくよいものだよ。とても気に入ったとあれに伝えておくれ」
姫付きの侍女は慌てて頭を下げた。
「それから、世継ぎの御子様」
「ん?」
「姫様からの言伝です。以前、いただいたお茶が少なくなってきたので、また戴きたいと」
「ああ。構わないよ。珪花、また用意をしておいておくれ」
少女は丁寧に礼を述べ、部屋を出て行った。
「お前たちもあれくらい愛らしいとよいのに」
卓子の上に杯を置きながら、御子は呟いた。それに対し珪花は澄まして答える。
「桃霞様は愛らしい姫君ですものね」
「仕える者は主に似るとでも言いたいのか?」
「御子。御子が待っていらしたのは、姫様からのお文ですか?」
また会話が不穏なものになりそうなのを察して、別の侍女が慌てて口を挟む。御子はちょっと呆気にとられたような顔をしたが、直ぐに破顔した。
「まさか。私が待っているのは別の客だよ」
少女が廊下を歩いていく音が遠ざかっていく。と同時に、それとは入れ違いに近づいてくる足音があった。
じっと珪花が御子を探るように見つめた。彼女はいつも御子が何を考えているのか知りたがっている。それを彼女の本当の主に伝える為に。
「天龍の葬儀の日、王にちょっとした戯言を申し上げたのさ。そのお返しがそろそろ来る頃かと思ってね」
珪花が目を細める。彼女は御子が言った『戯言』の内容も知っているに違いない。御子を非難するような色がその目に浮かんだが、結局彼女は何も言わない。
やがて足音が部屋の前で止まった。朱の色の衣を纏ったやや年嵩だが豪奢な女性で、にこやかに微笑みながら跪いた。
「失礼いたします、御子」
御子は「ほら、来た」と言うように珪花へ目配せをした後、新たに現れた女へと視線を移した。女は確かに微笑んでいた。しかし、何処か軽口を叩いてはいけないような雰囲気を纏っていた。それは怜悧な珪花とは違った、しかし確かな威圧感だった。
「王がお呼びで御座います」
「用向きは何と?」
「存じませぬ」
いやに女はきっぱりと言った。御子はまた何か言いたげに目を細めたが、結局は素直に返答をした。
「分かったよ。今、直ぐに?」
「はい」
「では、着替えをしたら行くとお伝えしておくれ」
「承知いたしました」
女は再び深々と礼をして、部屋を出て行った。御子はいかにも面倒だといった調子で立ち上がり、周囲の侍女たちは慌てて着替えの用意を始める。
「さっきの話だけと」
早速、御子が着ている上着を脱がせようと手にした珪花に御子は声をかけた。
「どのお話ですか?」
「仕えている者と主は似るという話だよ。あれはやっぱり違うね」
「どうしてそう思われるのです?」
「だって、さっきの女とお前とは随分雰囲気が違うもの」
珪花は眉を寄せたが、御子は完璧に無視をした。
「…仕えている主は同じなのにね」
珪花は何も答えなかった。ただ御子の帯を締めたとき、彼女は黙って普段よりも随分ときつく締めたのだが、御子もそれ以上は何も言わなかった。