野犬と月

 

 京で一人、飯屋に入った。丁度、飯時で酷く混んでいた。灯りと炊事の煙と人いきれで煙った店内には二本差しの、何処かみすぼらしい男たちばかりだ。
 
 一人で飯を食っていると、周りの会話がよく耳に入ってくる。この御時勢、話題はもっぱら異人の横暴への憤怒と対する幕府の弱腰への批判だ。我こそは異人どもを斬り捨ててやると息巻く者。いやいや、一人二人を斬り捨てるだけでは駄目だ。奴らが乗ってきた船を焼いてしまえばいい。何故、そんな簡単なことを誰もやらぬのだと喚く者。酒が入っているからだろう。騒々しいこと限りない。
 
 その喧騒の中、小さく話す者達もいた。話している内容までは分からなかったが、話す言葉に懐かしい響きがあった。京にいて己の国言葉を聞くのは嬉しい。思わず伸び上って見れば、期せずして知っている顔だった。
 
 実に幸運な偶然だ。飯と箸、それから銚子を一本持って立ち上がる。畳に座って寛ぐ他の客に詫びながらその顔の側まで行くと、次第に彼らの話す言葉がはっきりと聞こえてきた。
 
「ありゃ、どうしてあそこで転んだのかね」
「見ちょらんかったのか?自分の小便で滑ったんじゃ」
「へぇ、あいつ漏らしとったんかいな」
「臭っちょったろうが。そん汚い手で儂の袴に縋ろうとするもんじゃから、その前に斬ってやったわ」
「ほぉ。お主、危ないところやないか」
「そうじゃ。袴なんぞこれしかないのにのう」
 けらけら笑いながら、銚子を傾ける。
「あいつを晒すんは、ちと手間だったな。重くて」
「全くじゃ。首も太うてなかなか斬れんかった。お陰で刀も欠けたし、あいつのせいで酷い損じゃ」
「よかったのう。袴まで汚されんで」
 
 銚子と飯と箸を持って、暫し立ち尽くした。どうしようもない嫌悪のせいだ。近くの客が不審そうにこちらを見上げていた。気を取り直し、旧友に久しぶりに会ったときの笑顔を作る。
 
「以蔵、久しぶりじゃのう」
 
 男はびくっとして振り返った。周囲の男の中には刀を手にした者もいたが、その金属音は意識的に無視した。
 
「…坂本さん」
 
 以蔵は呆気にとられたような顔をしていたが、有無を言わさずその隣に座りこむ。
 
「まっこと久しぶりじゃのう。元気にしちょったか?武市先生は?」
 
 以蔵の知り合いらしいと認め、周囲の者達は刀を置く。だが、剣呑な目の光は変わらない。そんな彼らをぐるりと見渡しにいっと笑って見せた。
 
「以蔵。そんお人は?」
「坂本龍馬さんじゃ。武市先生の御朋友で、江戸の千葉道場では…ええ…」
「免許皆伝じゃ」
 
 おお、と周囲の男たちは感嘆の声を上げた。それを適当に往なしながら、酒を注ぐ。
 
「ほいで、今は海軍奉行並、勝麟太郎先生の客分じゃ」
 
 空気が変わる。刀を取った男たちとの間に以蔵が慌てて割り込む。店の者が不安そうにこちらを見ていたが、己は気にせず猪口を傾けた。
 
「坂本さん」
 
 以蔵が急にこちらの肘の辺りを掴んだ。
 
「お?」
「ちっくとこっちへ」
「おお、なんじゃ。皆、すまんのう」
 
 以蔵に店の外へと連れ出される。時は二月。寒さは和らいできたとは言え、京の冬は殊の外冷える。特に南国育ちの土佐者には堪える寒さだ。
 
「外は寒いのう」
「坂本さん、皆の前で勝麟太郎の名は出さんでください。斬られますきに」
「何でじゃ」
 
 同じ土佐者だというのに以蔵は微動だにせず立っている。
 
「勝先生は面白いお方じゃ。儂らの話もよう聞いて下さるし」
「そんなことは関係ないですき」
 
 凍りつく月の下で、以蔵の目の光も凍てついている。
 
「勝麟太郎は洋行帰りの幕臣。理由はそれで十分じゃ」
「どうして話も聞いてみんと、殺すんじゃ」
「話を聞いたから、坂本さんは勝に丸め込まれたんじゃろ」
 
 沈黙が落ちる。何と言ったらいいものだろうか。がしがしと髪を掻きむしるがよい言葉は浮かばない。
 
「以蔵…これまでおんし、何人殺したんじゃ」
「さて。十人くらいですかのう」
 
 手がぴたりと止まる。十人。その数は既に取り返しのつかないところまできている。無論、人数の問題ではないのだが、人数が多ければ多いほど敵が増え誤魔化しは利かなくなる。思わず、溜息が口を吐いた。
 
「もう、止めにせんか」
「何でです?坂本さんは攘夷を諦めたんですかの?」
 
 以蔵が刀に手を掛ける。返答次第では斬ると言うのだ。己自身も大柄だが、以蔵は更に背が高い。そしてその威圧感もまた生半可なものではなかった。まだ刃を向けられた訳でもないのに、身を斬られるような威圧だった。
道場ではそんな風ではなかったように思う。人を殺すと何かが変わるのだろうか。
 
「大義を失くしてちょるんは、おんしらの方じゃろう」
「何じゃと!」
 
 本当に以蔵が場所を変えてくれてよかったと思った。あの席で同じ話をしたら、間髪入れずに斬られていただろう。以蔵はこちらを知古と思うからまだ刀を抜かずにいる。こちらはあくまで刀に手を掛けないでいた。
 
「さっきのおんしらの話じゃ。とても志士の話とは思えんかった」
 
 自覚はあるらしかった。以蔵は決まり悪げに目を逸らした。
 
「人の死に様をああ馬鹿にするのは感心せんのう」
「…そうでもせんと…」
「ん?」
「そうでもせんと、やってられんのです」
 
 以蔵が嗤った。月光の下、口角が両脇に上がるのが見える。
 
「武市先生はこれが義じゃちおっしゃる。でも、坂本さん。命乞いしながら這い回るもんをただ斬っても、正しいことをしたち思えんのです」
 
どうして、こんなことになってしまったのだろう。目の前の男をこんなにしてしまった男は、ここにいない。あれほど国を憂い、同朋に慕われ、妻を慈しみ、清廉潔白な者を他に知らない。それなのに。
 
「儂らが殺した男らは虫けらじゃと、皆で言い合って確かめるんじゃ」
 
 そして、その為に嗤うんじゃと、男は言外に言う。
 罪深いのはこの野犬のような男なのか、それとも月のように清らなあの男なのか。
 
「…以蔵」
 
 再び額に手をやる。どうするか。このままここで別れれば、男は道化のように嗤いながら人を殺め続けるのだろう。そして、きっとそれを清廉な武市は嫌悪する。
 正直、手に負えない。この国が変わるのに血が必要だけれど、人殺しを楽しむようになったら終いだ。以蔵は自らいろいろと考えるような男じゃない。もし、武市の命や仲間の教唆がなければ人を殺す必要性すら感じないだろう。
 
「のう、以蔵。おんし、ちっくと疲れてるんじゃ」
「そんなこと…」
「疲れちょるから、大義が見えんようになる。正直、武市先生のことも信じらんようになっちょるんじゃろ?」
 
 やはり以蔵は顔を顰めた。どうも図星のようだった。
 
「…先生は儂に人を斬れと言うたが、儂を自分では何も考えられん阿呆じゃと見下しとるんじゃ。だから、儂らが相談して天誅をするようになったち、今度は止めろなんちゅうぜよ」
「それはおんしがそうへらへら嗤うからじゃ。人を斬っちょるのに」
 
 武市が人殺しにやめようとしていると聞いて、少し安堵する。だが、以蔵は悔しげに唇を噛んでいた。
 
「前はよくて今は駄目じゃという道理が儂には分からん。初めから先生が斬ればよかったんじゃ。武市先生じゃったら、こんくらいのこときっと澄ました顔でなさるんじゃろう」
「そうじゃない、以蔵。おんしがやってられんと思うのは当たり前のことじゃ。武市先生じゃち、きっとそうなる。けんど、先生はやったことがないき、分からんだけじゃ」
 
 以蔵は少し俯いて、考え込むようだった。その姿を見ながら、こんなとき師・麟太郎だったらどうするのだろうと考えた。
 庭の虫けらさえ殺すのを好かない師は、以蔵を無闇やたらと怒鳴りつけるのか、それとも、懇々と諭すのか。
 大法螺吹きなどと言われているが、師のような殺しに来た人間すら説き伏せる技は、まだない。
 
「おんし、武市先生の仕事はちっくと休んで儂の方を手伝わんかのう?」
「坂本さんを?」
「大丈夫じゃ。儂と武市先生は『アザ』『アゴ』と呼び合う仲ぜよ。知っちょるじゃろ?」
「…何をするんですかのう?」
「人を殺すんじゃなく、守る仕事じゃ。いい息抜きになると思うがの」
 以蔵は首を傾げた。
「はあ。どなたを?」
「それは後でのお楽しみじゃ」
 
 言いながら懐から財布を取り出し、幾らかを以蔵に押し付ける。
 
「ほら、金も払うきに」
 
 押されるようにして、以蔵は頷いた。それをしっかり確認する。
 
「そうと決まれば、儂は帰るぜよ。必要なとき知らせるき」
「でも、まだ飯が」
「今、戻ったらおんしの仲間に膾にされそうじゃ」
「それに、こんなには…」
「ええから、ええから。それで皆ともう少し飲んで楽しむんじゃ。誰を殺すかなんちゅう話じゃなく、ええ妓の話でもしながらな」
 
 宿泊先だけ確認し合って、そのまま別れる。寒い中、あんまり立ち話をしていたから足先の感覚は殆どなかった。
 中天に凍てつく満月。その光が明るい分、周囲の星はかき消されている。
 武市は清廉だ。だからきっと、武市の描く未来は上手くいかない。凡夫にその清廉さは真似ができないからだ。
 
「罪作りじゃのう」
 
 土佐でふざけ合った日には決して戻れない予感があった。こうして以蔵に幕臣、勝麟太郎の護衛をさせようっていうのは、武市に対する裏切りになる。以蔵にはああ言ったものの、武市は怒るだろうか。いっそ怒って、以蔵を見放してくれればそれでよかった。以蔵は戸惑うかもしれないが、そのときは師匠が受け皿になってくれるだろう。たぶん。
 一つクシャミをして、背を丸める。寒くなったのは体だけではない。すっかり薄くなった財布を握り締め、師匠が払ってはくれまいかと、ちらと考えた。
 
「…先生は金に五月蠅いからのう」
 
 ぽりぽりと頭を掻きながら、ほろ苦く笑う。もしかすると今頃、師もクシャミをしているんじゃないかと思った。