政を行う表方『羲和殿』と世継ぎの御子の私の領域である『啓明殿』とは、漆黒の扉で区切られている。王の後宮『玉兎殿』と同様『啓明殿』がその主以外の男の立ち入ることを禁じているのに対し、『羲和殿』は女の立ち入りが基本的には許されてはいない。例外的に両方への出入りが許されているのは、医者や普請の者などの技術者。また、王の摂政となった王太妃や王妃は王と同等の権限をもって、裏と表を自由に行き来することができた。
世継ぎの御子が『羲和殿』へ入るときは、事前に表方へ通達が出される。そして約束された刻限に御子は侍女らを引き連れて、扉の前で待つ。侍女頭が扉の内に向かって先触れをし、漸く扉の向こうに控える兵たちが扉を開くのだ。完全に開くまでの間に女たちはその場に跪き、表方を見ないように目を伏せる。また御子を迎えに来ている従者も、侍女たちと目を合わさぬよう深々と頭を下げなければならなかった。
このように表方と裏方というのは扉一枚の距離にありながら徹底的に隔てられている。しかし、不思議なことに侍女たちは表方で御子が誰とどんな話をしたかや、どんな振る舞いをしたかなどまるで見てきたように知っていた。御子は常々、珪花の切れ長の目が、ふわっと彼女から離れて付いてきているのではないかと疑っていた。
扉が開いた途端、侍女が一人、小さくあっと声を上げた。御子が振り返ると、一番年若い侍女が慌てて頭を下げるところだった。
「…蟷螂を知っているのかい?」
扉の向こうには一人の男が這いつくばっている。強い癖毛の持ち主で、結い上げた髷もぼさぼさ。しかも赤毛だ。黒髪の美しさが重んじられる宮中において、見るからに御子の従者に相応しい姿ではなかった。
「まだ、その男を遣っていらっしゃったのですね」
顔を上げないままで、珪花が言う。そんな彼女の黒髪を見ながら、御子はちょっと笑った。彼女の声にまだ不機嫌さが滲んでいたのだ。御子は彼女の取り澄ました顔よりも怒っているときの方が好きだった。その方が彼女の素顔に近いように思えたのだ。
「表で誰を遣おうと、お前たちの迷惑にはならないだろう?」
更に怒らせようとして、皮肉めいた口調で言う。しかし、彼女は容易に己の仮面を捨てない。殊更に冷たい口調で彼女は答える。
「そういう問題ではありません。その者は御子の権威に傷をつけます」
「そういうことなら、益々関係ないだろう」
つまらないなと呟きながら、御子は敷居を跨いだ。
きっと珪花はまだ何か言い足りないことがあったろう。しかし、御子が『羲和殿』の領域に入った瞬間に、扉は閉じられた。
途端に空気が変わる。こちらの庭では葉の緑も花の色も、せせらぎも見えない。只管に白い石畳と、水の流れを模した玉砂利。広大な広場に百官でも犇めいていればそれなりに壮観なのだが、誰もいない今日はただただ空虚だ。左右対称、規則的に置かれた青銅の香炉も煙を上げておらず、豊かな日の光に無意味に照らされている。
そうでなくとも、こちらは息が詰まる。例え侍女たちが忠誠を尽くしていなくとも『啓明殿』はやはり自分の領域なのだと、御子はここへ来るたびに思い知る。
「いつまで跪いている」
漆黒の扉から数歩離れて、御子は背後に蹲る従者に声をかけた。すると、その男は悠然と立ち上がり、衣の皺を払った。
「俺、向こう側のお姉さんたちに嫌われてるんですね」
跪いていたのが苦しかったのか、男は頻りに腰を回したり、肩を叩いたりしている。思いの外、背が高い。しかし武門の者たちとは違い、痩せて頼りない風情だ。そこが蟷螂(かまきり)という名に相応しいと言えば相応しいかもしれないが、その昆虫が持つ鋭さがまるでない。
顔は平凡だ。目は小さく、細い。それに対し口は大きめで、見るからに飯を食いそうだ。頬に雀斑が散っているが、それ以上に目を引くのは額だ。丁度、眉間の上あたりに逆三角の入れ墨がある。まるで、この平凡な顔を他と区別するために印をつけたみたいだ。
御子に対する馴れ馴れしい態度に、扉を守る二人の兵たちが眉を寄せる。だが、御子は気にも留めない。
「今頃、気づいたのか?」
そう投げるように言って、御子は歩き始めた。その後を嫌に飄々とした従者が後を追う。
「いろいろとヘマをしてるんで、こっちの皆さんに嫌われてるのは分かっているんですけどね。あちらさんには迷惑をかけた憶えはないんですが」
「お前が下賤の出だからだよ」
「ああ…」
男は後頭部に手を当て、間の抜けた声を出した。
「そればっかりは仕方ないですね」
「そう。仕方のないことだ」
長い廊下を歩むが、大広間には向かわない。今回、呼び出された先は別の部屋だった。
「珍しいですね。王様に呼ばれるなんて」
「そうだね。王は私を嫌っておいでだ」
「何かやらかして、叱られるんですか?」
文官たちとすれ違う。彼らは御子に道を譲るが、御子の従者に対しては軽蔑の眼差しを向ける。それに対して蟷螂はへらへらと笑みを返した。
「…まあちょっと。耳の痛いことを申し上げただけさ」
「御子はいつも一言余計ですからね」
「そういうお前が一番一言余計だよ」
軽口を叩き合いながら、主従は『火烏の間』に辿りついた。その部屋はこの『羲和殿』における王の私室で、入室を許される者は王に召しだされた者だけだった。
先触れに室内から返答があって、扉が開く。室内は御子の私室と同じくらいの広さで、奥に大きな黒い鳥を描いた衝立が置かれていた。その鳥が『火烏』で、太陽に住む鳥とされ、この部屋の名の由来になっていた。
御子は従者を連れたまま部屋に入ると、部屋の中央に跪いた。
「お召に従い参上いたしました」
「…おぬし、まだその罪人を従者に遣っているのか?」
御子の挨拶には答えず、王はまず御子の背後に跪いた蟷螂について問うてきた。背後で蟷螂が微かに身を強張らせたのを何となく察したが、御子は澄ました顔で王を見上げた。
「この者は私が最も信頼している者ですから」
「ふうん。憐れだの。そのような者しか信じられぬとは」
玉座で王は鼻を鳴らした。天龍の葬儀の日と同じように寛いだ姿だった。緋の衣は金糸でびっしりと飾られ、その上に豊かな髭が流れ落ちている。
王の斜め後ろには男が一人控えていた。玉雲英。宰相の息子であり、王の真の右腕。
御子は正直、この王の影のような男が王よりも嫌いだった。今もその男がそこに佇んでいるのを見ただけで、舌打ちしそうになったくらいだ。全くといって特徴のない、しかし隙もない男だ。目が痛くなるほど漆黒の髪は後れ毛一本ない。白壁のような頬。やや青ざめた唇も形はよく、目は静かだ。彼は殆ど口を利くことはなく、本当に影のようである。しかし、それがその男の最も恐ろしいところだった。
かつて彼の養父である現宰相は高位の貴族であったものの、小さな野心しか持たぬ男だった。即ち、美貌の娘を何処からか養女にして王弟に嫁がせ、王宮内での席順が一つ上に上がれば満足するような男だったのだ。だがその美貌の娘の弟にあたるこの男が一緒に養子となった途端、唐突に野心に目覚めた。そして、ついには文官の最高位である宰相に登り詰めたのだ。鳳の一族の犠牲を引き換えにして。
鳳の一族の謀反を密告したのは一族に仕えた下賤の者で、玉の者ではない。そればかりか、玉の者達は鳳の一族を庇うような態度すら見せた。しかし、蓋を開けてみれば玉の一人勝ちである。凡庸を絵に描いたような雲英の養父がそのような策を張り巡らせるはずはないと誰もが思い、そこで王の傍らに侍するようになった青年の恐ろしさに人々は初めて気がついたのだ。
「さすがに王は素晴らしい臣下を従えていらっしゃる」
御子は皮肉に呟いたが、雲英は慇懃に頭を下げた。
「お褒めに預かり光栄です」
誇るでも、皮肉を返すでもない。ただその声は朗々と響いた。この男は声が不思議に魅力的で、特に声高に話す訳ではないのだがよく響く声をしていた。
御子はその声を無視して、ただ王を見据えた。
「先ほど桃霞姫より結構な贈り物をいただきました。王からもお礼を申し上げてください」
御子は悠然と唇の端に笑みを浮かべて言った。王は娘が愚かしくも世継ぎの御子を従兄として、また許嫁として慕っていることを当然快くは思っていない。このような話を聞けば、いつも王は不快感に顔をしかめる。二人の婚約が先王の定めたことでなければ、とっくにこんな婚約は取り消されているはずだった。
しかし、今日の王は顔色一つ変えない。寧ろ笑みを深めたくらいだ。反対に御子は眉を寄せる。王の笑みの理由が分からなかった。
「…あれはわしが用意させたのだ。おぬしの諱と同じ色であったろう。西方伝来の珍しい品だ」
王は謎かけの答えを言いたくてたまらないというような表情だった。その余裕に御子は苛立つ。自分は一体、何を見落としていたのだろう?
「翠雨。おぬしは古の事をよく学んでおろう。杯と聞いて何を思い出す?」
言われずともそんなことは分かっている。王から下賜される杯。それは賜杯と呼ばれ、つまりは毒を煽って死ねという命令だ。しかし、それを姫からの贈り物とした王の意図が分からない。
「…初代黎明王は御自分を追放した兄たちと争い、勝利に暁に玉の杯を贈ったと聞いております」
「その通りだ」
「そして王の兄たちは弟に敗北したことを恥じ、皆その杯を用いて毒酒を仰いだと」
「そんな古い話を持ち出さずとも、もっと最近の話があるではないか」
ごくりと唾を飲む音がした。御子は無意識に自分がたてた音かとも思ったが、どうも背後で蟷螂がたてた音らしかった。
「ほれ。おぬしの祖父の鳳徳じゃ」
御子は唇を噛んだ。右手を握り締める。こんなところで声を上ずらせたり、語尾を震わせたりする訳にはいかなかった。
「…王は私に自ら命を絶てとおっしゃるの…ですか?」
真っ直ぐに王を見たつもりだった。本当は皮肉に笑っていたかったが、そこまでの余裕はなかった。対し王はやや目を細め、微かに笑んでいる。若い頃、自ら剣をとって戦場を駆けた王にとって若造の虚勢はただ可笑しく、聊か憐れにさえ思えるらしかった。
「まあ、そう急くな。天龍の葬儀のとき、おぬしはわしを怒らせようとしたな。皆の前でわしとおぬしの間に確執があることを披露し、己に何かあったら疑惑がすぐにわしに向かうようにしたかったのであろう」
御子は否とも応とも答えなかった。構わず王は続ける。
「そうしておけば少しは己の身が守れると思ったか。愚かしいのう。例えそうであっても、誰も糾弾したりはせぬわ」
王はそう言うが、それは嘘だった。王の臣下は一枚岩ではない。御子が知っているだけでもそうだった。文官は殆ど玉の一族の配下にあり皆、王に味方するであろうが武官は違う。
天龍は生前、先王の遺志を重んじ、王の譲位を迫っていた。玉と姻戚関係を結んでいる狼の一族は玉の一派としても、忠を重んじる熊の一族などは龍に付くだろう。しかし、天龍の死でその均衡が崩れたのもまた事実。状況は御子に大きく不利となっていた。
「だが、わしもおぬしの叔父じゃ。兄上の子であるおぬしを可愛いと思わぬ訳ではない。おぬしは体も弱いことであるし、どうじゃ?世継ぎの御子の位を放棄し、隠遁でもせぬか?」
「御ふざけが過ぎますよ、叔父上」
漸く、御子は少し笑えた。王の言葉があまりに白々しかったからだ。
「叔父上こそ、父上との約束を果たすことこそが玉座にある条件ではないのですか?」
今度は王の方が黙り込んだ。暫し沈黙が落ち、広くもない室内が息苦しく思えるほどだった。
やがて王は片手を挙げ、背後に佇む白皙の男を促した。すると男は文のようなものを懐から取出し、その場で広げた。
「そう言うなら仕方なかろう。翠雨よ。おぬしに命を下す」
王は投げるように短く言った。御子は恭しく頭を下げる。一呼吸おいて、玉雲英が朗々と王命を読み上げた。
「世継ぎの御子、翠雨。芙湖の砦への出陣を命ず」
真っ直ぐに死を宣告されると思ったが、それはやや変形していた。御子は咄嗟に答える言葉がなかった。
「おっ恐れながら」
その隙に背後の従者が口を挟んだ。
「やめろ、蟷螂」
「よい。言わせてやれ」
「恐れながら、王」
いつもは飄々と呑気な男だが、蟷螂も王の前で口を利くのは初めてで緊張しているのか、声が固い。
「御子はお体が弱く、とても芙湖の砦までなど…それにそこは先日、天龍様が命を落とされた場所じゃないですか」
「…蟷螂。間の抜けたことを言うな」
従者の場違いな発言に御子は漸く己を取り戻した。
「だからこそ、その命を出されるのだから」
王は頬杖をつき、憮然としていた。代わりに傍らの影がそっと語りだす。
「そのようなことでは御座いませんよ、世継ぎの御子。芙湖の砦は我が国の護りの要でありますが、天龍の死により士気が落ちております。その喪失感を補うには王族の出陣が不可欠なのです」
「父上も世継ぎの御子であった頃、同じように出陣の命を受けたことがある。しかし、その時は病弱であることを理由に、王。貴方がその代役を務められたはずだ」
「残念ながら、御子よ。この度は御子の代わりを務めるにふさわしいような王族はどなたもおられません」
「そのようなことはない。王の異母兄弟であらせられる銀雪殿もおられるし、遠縁に当たりますが薫風殿などは経験豊かでいらっしゃる。戦の経験がない私などよりもずっとお役に立つでしょう。それに何も王族でなくとも…」
「別に…行きたくないのなら断ってもかまわぬ」
御子の言葉を王は鋭く遮った。
「行かぬのなら、さっさと杯を仰ぐがよい。その為の杯は既におぬしの元にあるではないか」
ぐっと御子は言葉を飲んだ。その為にあの杯は王から贈られなかったのだ。王の名で贈られればそれは既に命令だが、姫の名で贈られればそれは選択肢になる。
そう、これは二者択一で、しかも少しでも命を長らえたいと思うなら、最早選択肢は一つだった。
「…承知いたしました」
「御子!」
背後で従者が不満そうに言ったが、もうどうすることもできない。
「王の御期待に添えるかは分かりませんが、精一杯努めさせていただきます。ただ一つ…」
「何だ。まだ何かあるのか?」
「王が初陣なさったとき共に天龍が出陣したと聞いております。私の出陣にも世継ぎの御子に相応しい供人をつけていただきたく思います」
その天龍亡き今、同程度の供人をと言われたら王も少しは困惑するだろう。そう思ったが、王は唇の端を大きく歪めた。
「それはもう決まっておる。おぬしの初陣に最も相応しい供人じゃ」
しかし、王はその先を続けようとはしなかった。