またあふと 思う心をしるべにて

 

 今年二度目の五月ともなると、宵になっても尚、熱気が残る。龍馬は僅かに風の通る縁側へ文机を寄せ、背中を丸めて座っていた。側に置かれた行燈が彼の横顔を照らし、影は伸びて庭に落ちている。
 
時折虫を払いながら、龍馬は何やら一心に作業をしていた。その背後ですっと襖が開く。入ってきた男の顔を見て、龍馬は細い目を更に細めた。
 
「おう、慎太。どうじゃったかの。桂さんは」
 
 慎太こと中岡慎太郎は同郷の男の無神経な問いに、ただ呆れた様子だった。
 
「どうじゃったも、こうじゃったも…怒り狂っちょるわ」
「仕方ないのう」
 
 にいと龍馬は笑った。対する慎太郎は笑みを返す気力など残っていないとでも言うように、どかっと龍馬の隣に座りこんだ。投げ出された大刀ががちゃりと音をたてる。
 
「元々、桂さんはこん話に半信半疑じゃったからのう。禁門の変で長州を叩いたんは薩摩じゃったのに、そん薩摩が長州と手を組むはずないちゅうてな。それで、今回の待ちぼうけじゃ。そりゃ、怒るじゃろうのう」
「わしの失策じゃ」
 
 投げ出すように慎太郎は言った。
 
「刀を突き付けてでも、西郷さんを連れてくればよかったんじゃ」
「そんなことしちょったら、おんしが斬られちゅうぜよ」
「…ああ…もう一歩なのにのう」
 
 だん!と音をたてて、慎太郎は畳の上に転がった。こうも慎太郎が落胆するのも無理もない。西郷は桂との会談を約束し、ここ下関へ向けて出航までしたのだ。しかし、突然に西郷は下関への上陸を取り止め、京へ行ってしまった。西郷を迎えに行った慎太郎としては今一歩のところで裏切られた心持ちなのだろう。
 
 子どものような仕草を笑ながら、龍馬は慰めるように言った。
 
「まだ、諦めるのは早いぜよ」
 
 すると、むっとした様子で慎太郎は龍馬を見上げる。
 
「まだ、諦めちょらん」
「それでこそ、慎太じゃ」
 
 龍馬はまた笑って、再び文机の方へ向き直った。頻りにかちゃかちゃと金属の触れ合う音をたてる。慎太郎はぬくっと起き上がり、じっと龍馬を見た。
 
「おんし、何しちょるんじゃ?」
「ん?短銃の掃除」
「短銃なんぞ、いつ手に入れたぜよ」
「高杉さんに貰ったんじゃ」
「ふうん」
 
  慎太郎は興味深そうに龍馬の手元を覗き込んだ。行燈に照らされた文机の上には、解体された短銃が散らばっていた。ごろりと転がる蓮根型の弾倉。小さな螺子や発条。一体、どれが何の役割を果たすのか見当もつかない。
 
「おんし、こんなにばらばらで元に戻せるのかの?」
「…まだ、諦めちょらん」
「全く、後先考えんとバラしたんじゃろ?」
 
 苦笑しながら慎太郎は龍馬から離れた。
 
 慎太郎は胡坐を掻いて座り直し、頬杖をついて庭先を眺めた。盆栽棚だけが置かれた簡素な庭は慎太郎の落胆を慰めはしなかったが、困惑と苛立ちを鎮める役目は果たしたらしかった。
 
「おんし、聞いちょるか?」
 
 ふと慎太郎は静かに言った。
 
「ん?」
「武市先生が亡くなられたそうじゃ」
 
 思い出したように言ったのだが、今思い出した訳ではない。それは、その話を聞いたときから澱のように重く慎太郎の心に痞えていた。
 
 同じ志をもちながら、頑として土佐を出ようとしなかった武市半平太。自ら死地に残るようなものと思いながらも、彼の想いが分からない訳でもなかった。藩を脱した者らが故郷を愛おしく思わない訳ではなく、故郷の同志と完全に袂を分かった訳でもない。
 
「…おう」
「切腹じゃと」
「らしいの」
 
 龍馬の返答は拍子抜けするほど上の空だった。手元から顔を上げることすらなかった。
 
「龍馬?」
 
 あまりの軽さが逆に不審で、慎太郎は眉を寄せ龍馬を見た。その視線の先で龍馬は唐突に声を上げる。
 
「あ!」
 
 跳ね上がるように立ち上がり文机を跨ぐと、裸足のまま庭へ転がり出た。
 
「何じゃ?」
「螺子じゃ。一個転がっていった」
 
 そう言って、地面に這いつくばる。大の男が人の家の庭でそんな見ともない姿をしているのを、慎太郎は呆れ顔で見ていた。
 
「龍馬。おんし、わしの話を聞いちょったか?」
「おう、聞いちょったぜよ。武市先生の話じゃろ?おお!あったあった!」
 
龍馬は踏石の脇に群れていた露草の隣から、何やら摘まみ上げた。
 
「龍馬!」
 
 慎太郎の声に龍馬はしゃがんだまま振り返る。慎太郎の大きな目が、射抜くように龍馬を見ていた。
 
「わしが武市先生の話をしちゅうのに、おんしはそげな螺子の方が大事か!」
 
 友の死への無関心は許し得ない。しかし、慎太郎の怒りの理由の中には、己が武市を土佐へ置いてきてしまったという後ろ暗さも微かに含まれていた。
 
 そんな慎太郎を龍馬はいやに冷めた表情でじっと見上げていた。やがて、ぼそりと口を開く。
 
「武市先生が死んだんは、武市先生のせいじゃ」
 
 ゆらりと立ち上がりながら、龍馬は言った。
 
「龍馬?」
「過ぎたことじゃ。仕方ないぜよ」
「仕方ないじゃと!?」
「それが今の時節じゃ!!」
 
 鋭く、龍馬は吠えた。大柄なこの男が一言吠えると獣のような迫力があった。一言言ってやろうと身構えていた慎太郎は、気圧され、息を飲む。だが龍馬は次の瞬間、掌を返したようにちょっと笑った。
 
  拾った螺子を文机に置くと、縁側に腰をかける。汚れた足の裏を払いながら、静かに話しだした。
 
「今はのう、それぞれが信じゅう道をひた走るときじゃ。いろんな道を試して、上手くいかんかった者は死ぬこともある。それを憐れじゃ、気の毒じゃと振り返っていたら、己の道が見えなくなるぜよ」
「おんしは武市先生が憐れじゃち思わんのか?」
「思わん」
 
 『思わない』というよりは、その言い様には『思わないようにしている』というような意志があった。
 
「武市先生を憐れじゃ思えば、先生を殺した奴が憎うなるじゃろう」
「それは…」
 
 慎太郎は言葉を濁す。武市を殺したのは土佐の老公であり、それを憎いなどと言えるはずもなかった。幼少の頃から叩き込まれた忠義は骨の髄まで染みている。だが…本心を言えばどうして武市を殺したのかと詰りたい気持ちはある。
 
「憎いと思うと道が霞むんじゃ」
 
 龍馬は立ち上がって、文机の前に座り直した。
 
「薩長の話だってそうじゃろう。久坂さんらを殺した薩摩を憎いと嫌っちょったら、長州に先はないからのう」
 
 そう言う龍馬の横顔は凍てつくように、それ以上の議論を拒んでいた。
 
憎しみからは何も生まれないという麗句ではなく、それは冷やかな覚悟だ。己の友を殺した人間を憎く思うのは人を愛おしく思うのと同じくらい自然の道理で、それを捨てるのは何者をも愛さないことと同義だ。だから、その覚悟を決めた龍馬はこんな冷たい顔をするのだろう。
 
慎太郎はその拒むような横顔へぽつりと言った。
 
「…以蔵は打ち首だったそうじゃ」
 
 別に龍馬を動揺させるつもりはなかったし、動揺するとも思わなかった。ただ、武市のことを話したついでで、話してしまわないと気持ちが悪かったのだ。
 
「…そうらしいの」
 
 再び短銃を手にしながら龍馬は答えた。その声音には武市の死に対するものと別の響きがあって、忽ち、慎太郎は眉を寄せる。
 
「…おんし、以蔵は可哀想じゃち思っちょるのか?」
「ん~」
 
 龍馬の返答は曖昧だった。痛いところを突かれたと思ったらしい。
 
「何でじゃ?」
 
 対して慎太郎は辛辣だった。
 
「ありゃ、救いようのない阿呆じゃぞ。考えなしに人を殺して、武市先生も困っちょった。最後には無宿者なんぞに成り下がって、党や藩に泥を塗りおってのう」
 
 捕まる前に死ねばよかったんじゃと、慎太郎は吐き捨てた。
 
「…そいじゃから、可哀想なんじゃ。あいつには何の志もなかったのに、腕が立つからというて、みんなで引っ張り込んでのう」
 
 慎太郎は明らかにむっとした様子だった。あの清廉潔白な武市を憐れまないと明言しておきながら、よりにもよって犬のような男を憐れむなんて。
 
「志がなかったから、憐れじゃと?」
「己の道を走っちょるもんはそれでええと思うんじゃがのう…殺されたんが憐れというより、道が見つからんまま死ぬんが可哀想じゃ」
 
 龍馬は螺子回しを手にしていた。目の近い龍馬は覆い被さるようにして、螺子を止めている。慎太郎は腑に落ちない様子でその姿を眺めていたが、ふと思い付くことがあったらしい。
 
「そういえば、おんし…以蔵を勝の護衛にしちょったらしいの」
「ああ…よう、知っちょるの」
「それはその…可哀想じゃちゅうことと関係があるんか?」
「う…ん。わしは勝先生に預けてとけば、何とかなると思っちょったんじゃ」
 
 慎太郎が眉を寄せた。幕臣の勝を慕わしげに『先生』と呼ぶのが、慎太郎の癇に障った。
 
「で。何ともならんかったちゅうことは…『先生』は以蔵を見捨てたんか」
 
 慎太郎の『先生』には棘があった。しかし、龍馬は螺子を締めるのに夢中なのか気づかず尚も言葉を紡ぐ。
 
「ちっくとわしが甘かったんじゃ。先生は手遅れじゃち言うてな。それでも、手は尽くしてくださったんじゃが…」
 
 ふと言葉を切って、龍馬は短銃を持ち直すと引き金に指を掛けた。
 
「やめい。近所迷惑じゃ」
「大丈夫じゃ。弾は入っちょらん」
 
 躊躇わず、引き金を引く。言葉通り、かちりと撃鉄が落ちただけだった。だが慎太郎は発射されなかった弾丸の軌跡を追うように、庭先へと視線を移した。
 
「おんし、大丈夫かの?」
「何がじゃ」
「知っちょるか?勝は幕臣じゃ」
 
龍馬はきょとんとして傍らの盟友の横顔を見た。だが、忽ちのうちに破顔してけらけらと笑い始めた。
 
「なんじゃ。何がおかしいんじゃ」
「慎太。おんし、思いのほか阿呆じゃのう」
「何がじゃ!?」
「勝先生が幕臣じゃからって、わしが幕府と戦ができんと思ったがか?」
「じゃが、おんし…」
「ええんじゃ。それも」
 
 龍馬は再び銃口を庭へと向けた。
 
「先生は先生の道。わしはわしの道。気は遣わないことにしたんじゃ。先生もどうせわしに気は遣っちょらんだろうし、わしに気を遣って欲しいとも思っちょらんじゃろうしのう」
 
 かちりと撃鉄が戻るのと一緒に、蓮根に似た形の弾倉もくるりと回る。どうやら上手く組み立てられたらしい。龍馬は満足そうに目を細めた。
 
「それはそうかも知れんが…。もし長州との戦に『先生』が出てきたらどうするぜよ」
 
 その問いにも、存外、龍馬は平気な顔をしていた。もうそんな可能性は了承済みといった様子だった。
 短銃を懐へ仕舞いながら、あっけらかんと答える。
 
「ああ。そのときはわしらが負けるきに」
 
 ぎょっとして慎太郎は龍馬を見た。
 
「おんし…」
「知っちょるか?」
 
 唐突に龍馬は目を輝かせて、慎太郎に向き直った。
 
「幕府は軍艦を十隻もっちょるんじゃ」
 
十と言って、龍馬は両手をばっと広げた。
慎太郎も龍馬が船のことになると子どものようになることを知っていた。そして、自由になる船をたった一隻でも手に入れようと四苦八苦していることも。それを十隻とは!
 
「まあ、同じ船でも軍艦と輸送船があって、正確に軍艦っていうと何隻になるかちっくと分からんがのう。四十隻発注しちょるっていう噂もあるし」
「よっ四十…」
「そいつらをずらっと並べて手足のように動かせたら、ほんまに気持ちがええじゃろうのう」
 
 うっとりと龍馬は目を細める。その眼前には闇に沈む小さな庭ではなく、大海原が広がっているかのようだ。鯨のように巨大な船が黒々と、海原に並ぶ様子を慎太郎は思い浮かべた。西欧諸国にも劣らぬ壮麗な艦隊。それこそが自分らの、長州の、薩摩の悲願だった。
 
 しかし、その艦隊の指揮を執るのは誰なのだろう。慎太郎の傍らで潮を嗅ぐような顔をしている男だろうか。いや。今しているのは『幕府』の海軍の話なのだ。
 
 頭を過った予感にぎょっとする。龍馬が慕わしげに『先生』と呼ぶ男がその壮麗な海軍の指揮を執るのだとしたら、龍馬はその傍らにこそいたいのではないだろうか。
 
「大丈夫じゃ」
 
 その動揺に気づいたのか、龍馬はふと慎太郎を見た。
 
「先生は幕府のお偉方にこじゃんと嫌われとるき、絶対に登用されん。登用されるとしたら、どうしようもなくなって和平を結ぶときだけじゃ」
 
 龍馬の慰めは微妙に的を外していた。それが慎太郎の動揺を益々、深くする。
 
「万が一ということもあるけんど、まあ、そのときはそのとき。わしは考えても仕方がないことは考えないことにしとるんじゃ。これも先生の受け売りじゃがの」
「そうか…」
 
 慎太郎はつと、龍馬から目を逸らした。
 
 龍馬が師と道を違える覚悟を決めているのだとしたら、この疑いは友に対して無礼だろう。龍馬は先ほど『先生には気を遣わない』と確かにそう言ったのに。
 
「おんしが大丈夫じゃと言うなら…ええんじゃ」
 
 慎太郎はぽつんとそう言った。龍馬は暫く不思議そうに盟友の横顔を眺めていたが、やがて微かに微笑んだ。
 
「優しいの、慎太は」
「今頃、それを言うんか」
「…ええんじゃ。わしと先生は今は別々じゃが、どうせ同じ日本人じゃ」
 
 すいと目を細め龍馬は遠くを見る。
 
「こんごちゃごちゃは永久には続かん。必ずどっかで落ち着く。じゃから、生きてさえいれば、必ず会えると信じちょるんじゃ」
 
 龍馬のその楽観に、慎太郎は応と答えられなかった。今の混乱が長くは続かない(というか続かせない)という点については同感だが、それが落ち着いたときに幕臣である勝と龍馬とが双方無事であることなどあり得るとは思えなかったのだ。
 
 龍馬はちらりと慎太郎の顔を見て、慎太郎の異論を察したらしかった。にっと悪戯っぽく笑う。
 
「おんしとわしとはその辺り、ちっくと信じゅうところが違うみたいじゃのう」
「おんしの読みは甘いんじゃ。幕府とは…」
「待て待て。待つんじゃ」
 
 びしっと龍馬は慎太郎の顔の前に右手を突き出した。
 
「その話は後じゃ。今は幕府をどうするかよりも、先にすることがあるじゃろう」
 
 慎太郎は言いかけた言葉を飲み込み、はあと溜息を吐く。
 
「…西郷か…」
「そうじゃ。まず薩長をどうにかせんと、幕府はどうにもならんがじゃ」
 
 龍馬の言う通りだった。慎太郎は思わず額を抑える。
 
「なんじゃ。また、脳痛か?」
「違うわ!何かいい方法がないか考えちょるんじゃ!」
「…西郷さんに会いに行くしかないじゃろう。もう一度、仕切り直すんじゃ」
 
 事もなげに龍馬は言った。あの桂の怒りぶりではそんなこと不可能に思えたが、この男が言うと可能に思えるから不思議である。
 
 ふと、龍馬は真顔になる。ぴんと張りつめたような横顔だった。
 
「わしらは武市先生と考えが違うちゅうて土佐を出てきた」
「そうじゃな」
「天忠組の連中とも考えが合わんちゅうて、合流せんかった」
「そうじゃ」
「わしと勝先生とは…まあ、いろいろあって今は敵味方じゃ」
 
 少し曖昧な言い方が気にかかったが、慎太郎は問わずにいた。
 
「おんしとわしもちっくと信じちゅうところが違う」
「…そうじゃの」
「じゃが、武市先生らが死ねばいいとは思わんかったし、わしらだって殺し合いたい訳ではないんじゃ」
 
 慎太郎は答えなかった。無論、武市らが死ねばいいとは思わなかったし、殺し合いたいとも思っていない。しかし、殺し合わねば『ならない』ときも存在していると慎太郎は信じていた。
 
「わしは道が違うもん同士でも殺し合わないで済む世が、真っ当な世だと思うんじゃがの」
 
 慎太郎の心の内の声も、龍馬は無論知っていただろう。しかし、笑みながら、龍馬は静かに言うだけだった。