出立の朝 肆

 

 御子の出陣は即日公になった。様々な方面から祝いの品が贈られ、女官たちも口々に祝辞を述べた。無論、御子の身近にある者達は御子が出陣など望んでいないことは知っている。だが、珪花などは御子が不貞腐れて寝台に転がっているのを見ながら「よかったではありませんか」と素気なく言うのだ。
 
「何がいいって言うんだい?」
 
 睨み上げながら問うても、相変わらず澄ました横顔。
 
「下々の間では御子があまりにお姿をお見せにならないので、実は姫御子なのではないかなどと噂している不届き者もいたものです。御出陣なさればそのような者達も口を慎むでしょう」
「姿を見たら、やはりな、と囃し立てそうなものだけどね」
 
 御子が言うのは強ち杞憂でもなかった。生まれて初めて甲冑を着込んだ御子は、それだけで倒れそうになったのだ。圧し掛かるようにずしりと重く、よく武官の連中はこんなものを着て剣を振るったり槍を振り回したりできるものだと思った。
 
「しっかりなさいませ」
 
 鈍い黄金の鎧の上から翡翠の色の外衣を着せながら、その時も珪花は冷たく言った。
 
「出陣の朝はこれを纏い、馬に乗らなければならないのですよ」
「馬は苦手だな…」
「存じておりますが、民の前では失態のないように」
 
 無論、乗馬の練習も行った。乗馬をしたことがない訳ではないが、元々、好きではなかった。馬は言うことをちっとも聞かないし、周囲の者はこっそり苦笑するしでやる気は全く湧かない。どうせ、馬を駆って遠くまで行くなどということもあり得ないと思っていたから、これまで真面目に取り組んできたこともなかったのだ。
 
「御子。大丈夫ですか?」
 
 実際に甲冑を付けて馬に乗る練習をしたときは、ろくに馬に乗ったことがない蟷螂にすら心配されてしまった。蟷螂は器用貧乏というか、大体のことは初めてでも器用にこなす。だが、どれも大成しないのですよとへらへら笑うのだ。
 
「そんなこと言うなら、代わってくれ」
 
 そう軽口で返したものの、手綱を握る手は必死だ。特別に大人しい馬を選んでもらっているのだが、それでもいつ振り落とされるかと緊張してしまう。その緊張が馬に伝播するから、馬が落ち着かない。頭では分かっているのだが、どうしようもないことだった。
 
「どうせだったら、とことん失敗して王に恥をかかせてやるのも悪くないな」
 
 時折、そんな不穏なことを呟いてみるが、その軽口に答える者はなかった。皆、誇り高い御子が道化の真似などできやしないことを知っているのだ。
 
 毎日を舌打ちしたいような気分で過ごしながらも、日々は刻々と経っていた。庭の木々が日ごとに緑の色を深め、花々はその姿を変えていく。
 
 そして、何もできずに、その日は来た。
 
 鎧をつけ、髪を結い、外衣を纏う。最後に籠手をつけた後、珪花は少し離れてじっと御子を眺めた。まるで、己の作品を眺める絵師のような眼差しだった。
 
「どうだ?一端の大将に見えるか?」
 
 御子はにやりと笑ったが、珪花は笑わなかった。
 
「…それじゃあ、行こうか」
 
 もう二度とこの部屋には戻らないかもしれない。そう思ったが、振り返らずに部屋を出た。道化になれないのなら、見事に軍を率いる世継ぎの御子を演じきってやろうと腹を括ったのだ。
 
 長い回廊を歩み、例の扉の前に立つと女たちは跪いた。
 
「御子」
 
 振り返ると、一人、珪花は跪かずに御子を見据えていた。
 
 透き通る陶磁のような女。血の通わない、冷やかな人形のような。
 
 その顔が今日は少し違って見えた。
 
「どうか、御武運を」
 
 彼女はいつものように仮面のような顔を保とうとしていて、それに失敗していた。気のせいか、その眦の縁にじっと涙のようなものが滲んでいるように見えた。御子はぎょっとして彼女の顔を見返した。だが、確かめる間もなく、さっと珪花は跪いた。御子の背後で漆黒の扉が開く。
 
「…御子?」
 
 扉の向こうでは蟷螂が待っていた。今回は戦に従うということで彼もまた胸当てだけの簡易な鎧をつけていた。
 
 御子が扉を抜けると扉は音をたてて閉まった。
 
「…何か…調子が狂うな」
 
 そう呟きながら御子は歩き始めた。
 
「どうなさったのです?」
 
 蟷螂が不思議そうに言った。こちらはいつも通り、どこか呑気だ。
 
「いや…あの女にも情というものがあるんだと思ってね」
 
 彼女があんな顔をしたのは、御子は二度と帰ってこられないと思っているからだろうか。それを名残惜しく思ったのか、それとも死地に自ら向かう御子を憐れに思ったのか。
 
「そりゃ、きっと御子のことがお慕いしていたんですよ」
 
 はははと、蟷螂は無責任に笑った。
 
「…お前、己がどんな愚かなことを言っているのか分かっているか」
 
「いや…その男としてではなくとも…お仕えする主として?」
 
「それでも、同じことだ。私は慕われるような主ではない」
 
「…そうですか?私は割とお慕いしていますけれどね」
 
 御子は呆気にとられた顔で暫し、蟷螂の顔を見返した。蟷螂はただにこにこしている。
 
「ふざけたことをぬかすな。お前が私を慕うはずもない」
 
 御子はふいっと目を逸らした。
 
 今日、白亜の庭にはびっしりと兵が居並ぶ。五色の旗が空に翻り、燦々と日が降り注ぐ中で黙々と出陣の命を待っている。一応、己の配下となる兵たちなのに、御子は誰一人彼らを知らなかった。結局、供人となるのが誰なのかも知らされなかったのだ。
 
 何気なく庭を眺めて、御子はすっと目を細めた。
 
「御子…あれは」
 
 蟷螂も気づいたらしい。翻る旗の中に黒々と龍の図案も旗が幾つか並んでいる。
 
「…龍が…御子のお供をするのでしょうか。天龍様が亡くなっているのに」
 
 それはあまり有難くないことだった。
 
龍がこの度の出陣に付き添うということは、龍が完全に王の側に与したということになる。もし、龍がこちらの肩を持つならば王は決して彼らを選ばない。
 
 しかし、この場で王の真意を確かめる暇はない。既に大広間の扉は目前に迫っていた。
 
 御子が扉の前に立つと両側に立つ兵が槍で床を打った。
 
「世継ぎの御子、翠雨様の御成り!」
 
 そして、扉が開く。実に四人がかりだ。
 
 大広間には百官が犇めいていた。王から見て左手に文官、右手に武官の者が背を正して居並んでいる。
 
 王のすぐ左手には文官の最高位である宰相が立っていた。白髭を蓄えた老人は白銀の正装をしてこちらを蔑むように眺めていた。だが、御子はその老人の背後で己の存在そのものを消し去って跪いている玉雲英に視線をちらと投げた。雲英は視線に気づいたのだろうか?彼はちらとも身動きをしなかった。
 
宰相の向かい側には武官の最高位である大将軍が立つはずだ。しかし、今は空位のため誰もいない。尤もその場所は天龍が滅多に都にいなかった為、誰もいないのは珍しいことではなかった。
 
そうだった。天龍は都に戻ってくることなど殆どなかった。彼はその人生の大半を戦場で過ごし、残りは己の領地にいることが殆どだった。それでも、都の人々は彼を愛していた。
 
その彼はもういないというのに、この大広間はどうして少しも変わらないのだろう。どうして王宮に仕える百官たちは何の恐れもなく、ここに居並んでいられるのだろう。
 
御子は広間の中央に優雅に跪いた。重い甲冑に押しつぶされるような想いだったが、幾度か練習をしておいたおかげで無様な姿を見せずに済んだ。
 
「王よ。この度は私に出陣を御命じくださり有難うございます」
 
 本音とはかけ離れた言葉。しかし、これが儀礼だ。
 
「世継ぎの御子の位を預かりし私が、天龍の死によって綻びかけた国の境に安寧をもたらしましょう」
 
 王はいつものように玉座に座っていた。普段より一層光り輝くような緋の衣を着、枝葉のように揺れる飾りのついた黄金の冠を被りながら。そして、その右腕には一人の幼子を抱えていた。
 
 ふっくりと頬の丸い、碧色の衣を着た男の子。指を咥えながらじっと御子を眺めている。
 
「すまぬのう。碧雲が出立の儀を見たいと騒いでな」
 
 幼子を見上げる視線に御子の不満を感じ取ったのだろう。王は笑った。
 
「突然、走り出したりしても適わぬでな。ここに座らせることにした。構わぬであろう?」
 
 誰も王のその不作法を咎める者はなかったのだ。それならば、御子が何かを言えるはずもなかった。
 
「ええ何も。問題はありません」
 
 王はまるで幼子を溺愛しているかのように、その子をしかと抱き直した。
 
 この光景を見た百官は何を思うか。遠くの戦場へ行かされる世継ぎの御子が王の幼子に跪いている。それは即ち、王位を継ぐ者が入れ替わった瞬間でもあった。
 
「碧雲も元気そうで何より」
 
 髪を頬の両脇で団子に結い、衣と同じ色の紐で留めている様子が愛らしい。己がどう思われているのか、少しも分からない様子だった。
 
「翠雨」
 
 王は勝ち誇って笑った。
 
「さて。おぬしに供の者を紹介しよう」
 
 王は左手で控えている武官たちの方を招いた。差し招かれて何者かが御子の背後に控える。御子は立ち上がって、振り返った。
 
 控えていたのは二人の男だった。一人は黒髪の中肉中背。もう一人は…黄金の髪をしていた。
 
「…さあ、面を上げよ」
 
 王に促され二人の男が顔を上げる。しかし、御子はじっと黄金の髪の男だけを見ていた。
 
 男は…男というよりはまだ少年であった。よく引き締まってはいるが、まだ華奢な四肢。伸びしろの残る背の高さ。鎧を纏ってはいるが、それでも隠しきれない肩の狭さ。
 
 名乗らずとも彼の容姿が、彼が何者なのかを雄弁に語っていた。
 
「この度、御子の供を申しつかりました。天龍が末子、玄龍と申します」
 
 少年は、どう見ても天龍の実子だった。秋の草原に似た色の髪と琥珀の目。目鼻立ちも面影がある。凛々しい眼差しや意志の強そうな眉。引き締まった口元などはよく似ていた。
 
「…お前は…」
 
 龍は完全に王の配下に下った。そうでなければ王が天龍の子を御子の供につけるはずはない。
 
 御子は静かに拳を握った。そうでもしてなければ甲冑の重みに負けて倒れてしまいそうだった。広場に龍の旗を見つけたときからその予測をしていたはずなのに、目の前にするとこれほどまでに衝撃を受けるものなのか。龍の裏切りは、自分をこれほどまでに傷つけるのか。
 
「お前は…」
 
 言う言葉が見つからなかった。本来ならよろしく頼むと、声をかける場面だった。しかし唇を割って出たのは全く違う、刃のような言葉だった。
 
「…天龍が…お前を見捨てというのは、本当か?」
 
 自分で思ったよりもその声は大きく、百官が犇めく広間に朗々と響いた。
 
「臆病者の龍とはお前のことであろう?」
 
 急に大広間が騒がしくなった。そのざわめきを御子は遠くの潮騒でも聞くように聞いていた。天龍の葬儀のとき、誰もが囁き合った噂だった。葬列の旗持ちをしたその美しい少年が、実は父天龍に見捨てられた不肖の息子だと。臆病者と言われ、戦場から返された少年だと。しかし、今のこの場は、そんなことを口にしていいものではない。
 
 互いに顔を見合わせ、囁き合う文官たち。武官たちの多くは龍の者達を慮ってか、目配せをするだけ。
 
「…翠雨よ」
 
 王座から王が窘めるように言った。広間がしんと静まり返る。
 
「己より年若い者をそう貶めて、恥ずかしいとは思わぬのか?」
 
 王の言葉に軽く頬を打たれたような心持ちだった。衆人環視の中で少年を貶めるのは、己の大人気なさを露呈するだけだった。御子は咄嗟に反論もできず、唇を結んだ。恥をかかされた少年は僅かに俯いて、ただ静かに跪いていた。
 
「悪いことをしたな、龍の子よ。御子は聊か口の悪いところがあってな」
「いいえ」
 
 王の取り成しに答える少年の声も涼やかなものだった。天龍の葬儀の日の清々しさと何一つ変わりがない。しかし、御子は一点、少年の動揺を見つけていた。首筋から両の耳朶が真っ赤に染まっていたのだ。
 
「玄龍が副将だが、まだ若い。それで、もう一人。そら、おぬしも知っておるだろう?」
 
 少年の羞恥の証を眺めていた御子は漸く、今一人の男に目を向けた。
 
「御子の初陣にお供できることを嬉しく思います、御子」
 
 その男は御子も見知った者だった。何故ならその男は元々御子付きの護衛官で、御子が外出するときは常に側にある者だったからだ。
 
「山鼬」
 
 御子は思い切り顔を顰めた。この僅かに眦の下がった調子のよさそうな男は、珪花たちと同じ。御子付きの護衛官でありながら、その忠誠は王の元にある。彼は玉と親しい狼の一族の出で、彼の妻も玉の遠縁の娘だ。
 
「この山鼬、身命を賭して御子をお守りする所存であります。ですから御子も大船に乗ったおつもりで御出陣ください」
 
 そう言うお前が一番信用できないのだと喉元まで出かかっていたものの、言葉にするのは止めた。先に龍の子を蔑んでおいて、ここで山鼬までも罵倒しようものなら己の器の小ささを披露するようなものだ。
 
 山鼬を見たお陰で、すっと頭が冷めた。ここは王の御前。居並ぶ百官の目前。ここで無様を晒す訳にはいかない。
 
 御子は翡翠色の外衣を翻して、再び王の方へと向き直った。
 
「王よ。素晴らしい供を選んでくださり、有難い限りです」
 
 あまりに白々しい台詞だったが、笑う者はなかった。
 
「必ずやこの者達と無事、この王都へ戻って参りましょう」
「道中の無事を祈っておるぞ、翠雨」
 
 茶番だ。
 
 王は幼子を右腕に抱えたまま立ち上がった。
 
「おぬしの初陣を言祝ごう」
 
 左右の文官・武官が一斉に姿勢を正す。扉を守る兵たちが槍の石突きで床を打つ。御子は頭を深く下げた。
 
 白々しい茶番だ。誰もがそれを知っているはずだ。それなのに、それぞれが与えられた役割を精一杯演じている。
 
「天に代わり王たるわしが告げる。世継ぎの御子、翠雨。おぬしの歩む道は直く、おぬしの行く先は常に心地よい。空は澄み、風は優しく、敵はおぬしの前に自ずと倒れ伏すであろう」
 
 がつんと再び、兵が床を鳴らす。
 
「御武運を」
 
 百官が声を合わせる。御子は更に深々と頭を下げ、密やかに笑った。