相、対するもの

 

こんな男がと、がっかりするような男だった。
 
そもそも、何度も断られ漸く叶った面会だった。こちらがあまりに粘るので単に根負けしたのだろう。実は嫌々なのが丸解りだ。
 
通された六畳と八畳の二間続きの部屋は酷く汚かった。紙の束や本が無造作に積まれ、布団も敷かれたまま。四月だというのに火鉢も出しっ放し、屏風には裃が無造作にかかっている。じじじと行燈の燃える臭いが、煙草の香に相俟って嫌に鼻についた。
 
男はその雑然の中央にあって、煙管を咥えていた。この渾沌とした局面に幕府の全権を引き受けているというから、隆々とした大丈夫を想像していたが、驚くほどの小男だ。先ほどまで風呂に入っていたらしく、髪も洗い髪のままで着流し姿だ。肩が濡れるのを気にする様子もない。客が来たから身づくろいしようという考え自体がないのだろう。
 
「言いたいことがあるなら、早くしてくれないかね。俺は今、忙しいんだ」
 
 放り出すように男は言った。幕府高官とは思えないざっくばらんなその声音には、不機嫌がありありと滲んでいた。忙しいとは言うが、風呂に入って、今から休むところだったのだろう。
 
 そう言えば風呂など、一体何日入っていないのか。男の不機嫌さにふと、己を振り返る。転戦に次ぐ転戦。設えたばかりの洋服は既に使い物にならないほど傷んでいる。こちらがこの部屋の汚さに呆れたように、目の前の男はこの恰好を汚いと嘲るのではないかとふと考えた。別に期待している訳ではないのだが、戦に疲れたこちらを労わるような様子が男には少しもないのだ。
 
「勝安房守様にお願いがあって参上いたしました」
 
 頭を下げたその頭上で、ふわっと煙を吐く気配がした。それはただ吐き出したというよりは、聞えよがしの溜息だった。如何にも迷惑だと言わんばかりの溜息を浴びて,胃の腑を吐き出しそうになる。
 
 何故にこんな扱いを受けねばならぬ。だが、己がここに何をしに来たのか、必死に思い出して耐えた。
 
「先日我ら新選組一同、甲陽鎮撫隊の名を戴き出陣いたしましたが、武運拙く流山にて敗北。局長、近藤が昨日敵方に捕らえられました」
「はあ。勝沼で負けたとこまでは聞いていたがね…捕まったのかい。近藤さん」
「どうか薩長に、近藤の助命を願ってはいただけないでしょうか」
「まあ、そんなことだろうと思ってたがね…」
 
 かつんと煙草盆の端を煙管で叩いて男は言う。
 
「あのな。俺の話が何でもあっちに通ると思ってもらっちゃぁ困るよ」
「話を出していただくだけで結構です。通らなければ、それはそれで諦めもつきます」
「言ったとしても無駄さ。近藤さんは助からねぇよ」
 
 放り出すような物言い。さすがに顔を上げ、きっと睨み上げた。
 
「何故、やってもみぬうちから諦めるのです?」
「理由は二つあらぁな」
 
 まるで他人事だ。そもそも甲陽鎮撫隊の名とともに甲府城を鎮圧せよとの命を下したのは、この男ではなかったのか。
 
「一つ。あんたらは殺し過ぎだ。あちらさんに恨みをかってるだろ?」
 
 それについては認めざるを得ない。しかし、こちらにも言い分はあった。
 
「しかし…それはあちらも同じこと。京を焼き払い、畏れ多くも帝を拐かそうと…」
「そんなこたぁ、関係ねぇよ。恨みってのは情の話で、理屈じゃねえんだ」
 
 ぐっと言葉に詰まった。今、弱みはこちらにあり、例え敵に義がなくとも従わなければならないときだった。
 
「それから、もう一つ。お前さんは俺の出す条件が飲めねぇ」
「条件?」
 
 近藤の命に代えられるものなど何一つない。例えお前の命と引き換えだと言われたとしても、それはそれでよかった。
 
「これから何が起きても、お前さんらが大人しくしていることだ」
 
 それはあまりに当然と言えば当然の条件だった。敵方に命を救われては、当然これ以降の抗争は望めない。慶喜公と同じように何処かに引っ込んでいるしかないだろう。だが、男の言葉には何か別に含意があるようだった。
 
「本当にできるのかい?」
 
― 俺がなんとかしてみるさ。
 
 近藤は笑って、敵軍に投降したのだった。
 
― だが、トシ。もし俺が戻らなかったら…。
 
― 馬鹿なこと言うんじゃねえよ。ちょっと話をつけてくるだけだろう?
 
 ああ、あのとき。どうして最後まで聞かなかったのか。
 
― そうだな。それじゃ行ってくるよ。
 
 男が煙管でこちらを指す。こちらというより、傍らに置かれた大刀を。
 
「そいつを捨てなきゃならねぇよ?」
 
 ぎりと音が鳴るほど拳を握った。その言葉はまるで抉るようだった。
 
「お前さん。近藤さんの為に命は捨てられても、そいつは捨てられねぇんじゃないのかい?」
 
 ぎりぎりと爪が掌に食い込むほどに。
 
「それに…近藤さんがそれを望むかねぇ?」
 
― もし俺が戻らなかったら…。
 
 最後まで聞かなかった。しかし、確信はあった。近藤は決して己の命乞いをしてくれとは言わなかっただろう。
 
 ふっと男の双眸と目が合った。男の双眸は真っ黒で、深い。その目がじっとこちらを見ている。何かを待つように。
 
 何を…何を待つのだろう。こちらから言うことなど、もう殆ど残されていないのに。
 
「はっ…」
 
 ふと思い付くことがあって、喉の奥から笑いが零れた。拳は最早、握りしめ過ぎて震えている。
 
「あんた…とんでもねぇ喰わせ者だな…」
 
 男はちょっと眉を寄せた。焦った様子はないが、気づかれるとは思っていなかった顔だ。それだけこちらを見下し、舌先で何とでも転がせると思っていたのだろう。
 
今更、気づくなんて。こんな無駄に頭を下げさせられたのは生まれて初めてだ。
 
「あんた…俺に近藤さんを諦めさせてぇんだな」
 
 男の表情は変わらなかった。若い頃はさぞ女にもてたであろうと思わせる整った細面は、ぴくりとも動じない。
 
「この俺を江戸から追い出したい訳だ。俺が近藤さんの為にウロウロするのが目障りなんだろう!?」
「そうさ」
 
 あっさりと男は認めた。
 
「今、江戸城を血を流さずに受け渡そうってときなんだ。お前さんらのために滅茶苦茶にされる訳にはなんねぇんだよ」
「何で戦わねえ!」
「そりゃ、お前さん。上様が恭順を選ばれたんだ」
「だったら何で俺たちに甲府へ…!」
 
 ふっと背筋に稲妻が落ちたような感じがした。狭い部屋ががんと揺れる。頭の中は高速で回っているのに、その他の時間は一瞬止まっているかのようだった。
 
 不自然なほどの沈黙。その間、男は言葉を発することもなく新しい煙草を煙管に詰めていた。
 
「…あんた…」
 
 気づいたときは立ち上がっていた。煙管を煙草盆に寄せて火を点けている男をじっと見下ろす。
 
「最初からこのつもりか。俺らに甲府城制圧を命じたこと自体、江戸から俺らを追っ払うために?」
「もし、そうだったとしてもさ…」
 
 ふうと新しい煙を吐いて。
 
「お前さんらが甲府城に入れなかったのも、官軍に負けちまったのも俺のせいじぇねえよ」
「そんなこたぁ、言われなくたって分かってる!」
 
 最早、震えは腕にまで及んでいた。咄嗟に握っていた大刀が震えと共にがちがち鳴っている。
 
「…怒りてえのはこっちだぜ」
 
 男はこちらをじっと睨み上げた。
 
「俺が折角、犬死を出さねえように考えてるっていうのに、あっちこっちで勝手に死にやがって」
「犬死だと!」
 
 怒涛のように頭の中を多くの者たちの面影が過る。この手で殺した者。自ら腹を切った者。戦で死んだ者。去っていった者。今、病床で血を吐いているであろう総司。そして、笑って去った近藤。
 
 命を賭けたのも、奪ったのも全て必要と思ったから。それを徒労だったとこの男は吐き捨てる。
 
 許されない。決して許されない冒涜だ。
 
「犬死だ!」
 
 がっと鋭い音がして煙管の先が弾け飛んだ。男が火鉢の角に煙管を叩きつけたのだ。それと共に、こちらがたじろぐほどの一喝が返ってきた。
 
「勝ちのねえ戦をいつまでもぐたぐたやりたがって、一体何が面白れえんだ!え?勝ったら城持ち大名になれるとでも思ったのかい?」
 
― トシ。この戦に勝ったら、俺は城持ちになれるかもしれないぞ。
 
 近藤の言葉が耳に蘇る。おかしな話だが、あの屈託のない笑みを、あの時は素直に信じた。目の前にぶら下げられた餌が眩すぎて、それが虚ろなことに気づかなかったのだ。だが、その餌をぶら下げた男はこうしてその無邪気な信頼を蔑む。
 
「おめえさんたちがやってるのは身勝手な私闘だ!!」
 
 何かがふっと千切れた。
 
 急に血が下がって、右手が白刃を引き抜いていた。
 
「…俺を斬るかい?」
 
 男は下からせせら笑う。
 
「俺を斬って何になるんだい?土方さんよ」
 
 男は全く動じない。こういった場には慣れているらしい。だが、こっちとてこういう場には慣れている。そこいらの口ばかりの不逞浪士共とは違う。
 
「何になるかって?」
 
 怒りが凝固しすぎて、逆に頭は真っ白だった。鏡がないから分からないが、きっと己は笑っているだろうと思っていた。
 
「俺がさぞかし、すうっとするだろうさ」
 
 ふっと突き上げるような笑いが込み上げてきた。ふふふと声を上げて笑う様を、男はやはり動じずに砕けた煙管を手にしたままじっと見ていた。
 
 頭の芯が、きんと冷めてきた。
 
 知っているのだ。男は己が斬られないことを。この男を斬れば、ここで自分も死ぬしかない。しかし、今、命を捨てれば失うものがある。
 
 近藤はまだ生きているのだ。命乞いが無理だとすれば、他に手を考えねばなるまい。
 
「…あんたなんか斬ったら、確かに俺は犬死さ」
 
 くだらねえと呟き、刀を収める。
 
 こんな汚い部屋にいつまでもいるのは時間の無駄だった。薄汚れた障子に手を掛け、ふと足を止める。
 
「あんたは俺たちが殺し過ぎたと言ったな」
「ああ」
 
 男は簡潔に答えた。余計なことを言わないのは、あと一言余計なことを言われていたら、辛うじて耐えた理性の糸がぶち切れることを知っているからだろう。
 
「でもあんたはそうやって澄まして座っていながら、旗本八百万騎を皆殺しにしちまうんだよ」
 
 俺たちが刀を振るってやったことを、お前さんは座ったままやっちまうんだから大したもんだと笑って、部屋を後にした。
 
「どうせ人間、最後は死んじまうのさ」
 
 雑然とした部屋に一人残された男は、先のなくなった煙管を弄びながら独り呟く。
 
「…ただ、お前さんらには場が必要なんだろ?死に場所って奴がさ」
 
 その声は無論、廊下を行く土方の耳に届くはずもなかった。