アンティゴネーの命題

 

  それは神々の定めたる不変の掟。

  死すべき貴方が定めた法が不死なる神々の掟に勝ると、私にはとても思えないのです。
 
 
 
「家人が出払っておりますので、十分なおもてなしができませんと主人が申しております。わざわざ来ていただいて大変申し訳ないことですが、どうか御引取下さいませ」
 
 玄関先に現れた女性はそう言うと、床に額が触れそうなほど深く頭を下げた。隣に立つミットフォードはしばらくその女性の後頭部を眺めていたが、やがて私の方を振り返った。
 
「つまり、一体どういう意味なんだい?アーネスト」
「つまり、帰って欲しいと言っているんだよ。バーティ」
 
 ミットフォードは秀才で実に短期間で日本語を習得した。だが、この国独特の回りくどい言い回しには未だ慣れぬらしい。
 
「だって、君。カツとは友人なんだろう?」
「そうだけど、彼に会うのはなかなか難しいよ。それから、女中の前でこの家の主人を呼び捨てにするのはやめた方がいい。『ドノ』をつけるか、官職で呼ぶかどちらかだ」
「それじゃ、諦めて帰るのかい?」
「それも、つまらないな。彼に尋ねたいことがあるし…え…おイトさん。私らは別におもてなしなどなくていいと伝えてくれませんか?この後に寄るところもあるし、ちょっと上がるだけだからって」
「わかりました」
 
 女性は音もなく立ち上がると踵を返し、奥へと姿を消した。
 
「今の女性もあれなのかい?」
 
 眉を寄せ、ミットフォードは彼女の行った先を見つめている。
 
「そうだよ。彼女との間に娘さんもいる」
「一体、何人の女がいるんだい?」
「さあ。聞いたことはないけど」
「はぁ…何と言うか…まあ」
「羨ましいと正直に言ったらどうだい?」
「いやいや、冗談言うなよ。妻と恋人と同じ屋根の下で暮らすなんて、僕にはとても無理だ。そうだろう?しかし…あの人がね…実に意外だ」
「意外?」
「君はそう思わないかい?なんていうかあの人、豪傑っていう感じじゃないじゃないか。小さくて」
 
 やがて、先ほどの女性がしずしずと戻って、先ほどと同じように目の前に跪いた。
 
「どうぞ、お上がり下さいとのことでした。こちらへお通り下さいませ」
「有難う。じゃ、失礼するよ」
 
 ミッドフォードと共に靴を脱いで屋敷に足を踏み入れた。タタミの敷かれた廊下はふかふかとして、足の裏に心地よい。
 廊下の丁度突き当りに襖があって、女性はその前で立ち止まった。室内との短い遣り取りがあって、襖がそっと開かれる。
 
「どうぞ」
 
 部屋に入ると、部屋の主はこちらに背を向けて座っていた。経机に向かい、何やら手紙のようなものを眺めている。まるでこちらが入ってきたのに気付いていないかのようだ。
 
「カツ。お邪魔でしたか?」
 
 声をかけると初めて顔を上げる。不機嫌な顔ではなかった。
 
「ああ…そちらは確か…」
「ミットフォードです。カツ・アワノカミ。こうしてお話するのは初めてですね」
 
 ミットフォードは一瞬、日本式に床に座って頭を下げるべきか、手を差し伸べて握手を求めるか迷ったようだった。が、アメリカへの渡航経験のあるカツはそれを察し、立ち上がって手を差し伸べた。
 
「It is an honor to meet you. Mr. Mitford.」
「英語がおできに?」
 
 ミットフォードが驚くと、カツは肩を竦めて笑った。
 
「挨拶以外は片言だよ。お前さんたちの日本語にはとても、敵わねえ。サトウさん。こちらがこの間話していた、可哀想な男かい?」
「アーネスト!」
「本当のことを言ったまでだよ。良家の子息に生まれたばかりに、愛しい人との仲を引き裂かれ無理矢理日本に連れてこられた憐れな男だってね。カツは非常に同情してくれたよ」
 
 その不幸を引き起こした彼の恋人の父親こそ、前公使のラザフォード・オールコックなのだから、ミットフォードを語るときこの話をしない訳にはいかない。しかし、彼は自分のプライベートがそこここで噂になっていることに不服らしい。苦々しくこちらを睨んだところへ、先ほどの女性が私たちの為に座布団をもってきてくれた。それぞれが腰を落ち着けると、カツは寛いだ様子で座り直した。
 
「随分と今日は静かですね」
 
 女中の差し出す湯呑を受け取りながらふと言った。この家で出される飲み物はいつも同じで最初に日本の茶が出され、その後は珈琲だった。それは客が日本人であろうと我々のような英国人であろうと変わらないらしい。
 
「家人の半分は駿府へ出たよ。女房や子らも先に行ったのさ」
 
いつも遠くに聞こえる女性たちの囁きが聞こえない。そればかりでなく、室内も閑散としていた。カツの部屋は日本人にしては珍しく乱雑で、よく書類の類や本、反故紙なんかが雑然と積み上げられていたのだが、どうやらそれらを片づけられてしまったらしい。いつも溢れそうだった経机の上には先ほど読んでいた手紙しかなく、整えられた部屋にいるカツはまるで彼自身が客人であるかのように居心地が悪そうに見えた。加えて、何処かに出かけたところだったのだろう。ハオリ・ハカマを身に着けた半正装で、それがまた彼を窮屈に見せていた。
 
「貴方は行かれないのですか?」
 
 江戸城が新政府軍に引き渡されて以来、将軍に仕えていた者達は新たなトクガワの領地となった駿府へ次々と移動している。カツの盟友であったオオクボやヤマオカも既にあちらに移住したとのことだった。
 
「いずれ行くよ。ただまだ片付かねえことがあるのさ。今、俺は徳川の台所の後始末を頼まれていてね」
「また面倒なことを引き受けられましたね」
「言っただろう?面倒なことは何でも俺に押し付けられる」
 
 そう言って、カツは湯呑に口を付けた。
 
「…蝦夷に行ってきたんだろう?どうだったんだい?」
「よく御存じですね。蝦夷の北側を占拠しているという噂のロシア人を見に行ったつもりだったんですけどね。途中で船が難破してしまって、散々でした」
「そいつは大変だったね。御無事で何よりだよ」
「そちらこそ、新たに面倒なことが起きたようですね」
 
 ミットフォードが隣から口を挟んだ。彼は先ほどから、この史上稀にみる複雑な局面を一手に引き受けているこの小柄な日本人に話しかけてみたくてたまらなかったのだ。
 
「トクガワの軍艦を持ち逃げしたエノモト・カマジロウというのは、カツのお知り合いですか?」
「昔からの知り合いさ。あれが塀を乗り越えて廓遊びに勤しんでいた頃から知っているよ」
「はあ」
「全くの大馬鹿さ。何度も話にいったのに聞く耳をもとうとしねぇ」
「しかし、我々の中にも幕府があっさりと降伏してしまったことに驚いている者も多いのですよ。まして、自分の軍艦は無傷で残っているのにそれを引き渡せと言われても…私なぞは少しエノモトに同情してしまいますがね」
「そうかい。ミットフォードさんはあのとき、江戸が丸焼けになればよかったとお考えかい?」
「それは違いますよ。貴方だって御存じでしょう。我々は貴方とサイゴウの決断を支持したのですよ。フランスとは違います」
 
 ミットフォードがややむきになっているのをカツは面白そうに眺めた。
 
「仏蘭西と言やぁ、面白い話があるよ。お前さんたち、ブリュネって仏蘭西人を知っているかい?」
「ええ。まぁ」
「あのお人、どうやら榎本さんらと一緒に蝦夷へ行っちまったらしいよ」
「…まさか…」
 
 私とミットフォードは顔を見合わせた。その情報はとても信じられないものだった。第一、ブリュネはつい先頃昇進したばかりであったからそれを捨ててまで脱走兵たちについていくとも思えない。カツは立場上、多くの情報を収集しているが、時折その情報が間違っていることもある。この情報もまた信憑性は薄いと私たちは判断した。
 
「信じねえのも、まあいいさ。俺も正直、そんな馬鹿なことをする奴がいるなんて信じられねえからさ」
 
 そう言って、カツは少し笑った。だが、次の刹那にはふっと笑みが消える。口ではいつものように放埓なことを言っているが、心からそれを楽しんでいる様子がないことに気がついた。
 
 それは部屋が綺麗なせいだけではないようだ。まさか、彼とあまり馴染みのないミットフォードを連れてきたせいでもあるまい。彼の笑みはまるで病床の人間が、朗らかな見舞客を半ば迷惑と思いながらも相手しているときのそれだった。
 
 しかし、ミットフォードは気づきようがない。彼の興味の赴くまま、話を続ける。
 
「エノモトはどうなるとお思いですか?」
「さてねえ。あれも死なすには惜しい男だから、自害さえしなけりゃいずれ戻ってくるんじゃないかねえ」
「では、いずれ降伏するとお考えで?」
「だって、他にどうしようもねえだろう?まさか、蝦夷に別の国をおったてる訳にもいくまいし」
「そう言えば、蝦夷に行き損ねた船が一艘、あるそうですね」
 
 何気ない、そうミットフォードにとっては一連の何気ない問いだった。が、その問いはカツの何かに触れたように見えた。
 
「何でも、新政府軍と交戦になったとか」
「そうだよ。当然、負けちまったがね」
 
 ちらと彼の視線が経机に置かれた手紙の上を撫でていった。
 
「あれも古い船だからね。故障していたらしいよ」
「知っている船だったのですか?」
「知っているも何も…俺はそれで亜米利加に行ったんだよ」
 
 はっとさすがのミットフォードも顔を改めた。アメリカに行ったとき、カツはその船の艦長だったのだ。艦長が船に対してどんな想いを抱くものなのか、長い船旅を経験してきた我々だって知らない訳ではない。
 
「咸臨丸っていうんだがね、ちょっと乱暴に扱ったもんだからガタがきてたのさ。エンジンはもう駄目で外してあったよ」
 
 それが、彼の寂寞の原因だったのか思い当たる。若い頃の苦労を共にした船がボロボロにされたという喪失感。しかし…それでは、彼があの手紙に目をやった理由が分からない。
 
 聞かない方が親切というものなのだろう。だが、好奇心が疼く。悪趣味と知りながらも彼を傷つけるものを知りたかった。
 
「カツ」
 
 呼びかけると、彼は片眉だけを上げてこちらを見た。
 
「その手紙は何なのです?関係があるのでしょう、その咸臨丸という船に」
 
 カツはきょとんとした。何か魔法のようなもので内心を見透かされたと思ったらしい。私としては、そんな奇妙な術を使えると思われても困るので直ぐに種明かしをした。
 
「だって、さっき貴方はその船の話をしながら、それを見たじゃないですか」
「…そうだったかい?」
 
 言いながら彼はその手紙を手にすると、無雑作にこちらへ差し出した。
 
 手渡された手紙を広げる。横からミットフォードが覗いたが、自分には読めないと思ったらしく、直ぐに私の顔を見た。
 
「何て書いてある?」
「戦死した咸臨丸の乗組員の遺体が埋葬されず放置されているそうだ。同胞だというのにそれを見て見ぬふりをしているトクガワを批判している文だよ」
「つまりはこの俺への恨み節って訳だ。全く…勝手に戦って勝手に死んだ奴らの面倒なんてみる暇はねえよ」
 
 そう、カツは言う。投げ捨てるように。
 だが、言葉とは裏腹にその横顔にはいつものような皮肉めいたところはなかった。
 
「何故、埋葬されないのです?」
「新政府の奴らが禁じているのさ。奴らも奴らで器が小さくてね。大権現様なんて天下分け目の大戦でも、東西両軍区別なく葬ったってのに」
「…まるで、ギリシアの悲劇みたいだな」
 
 ぽつんとミットフォードが言った。自分で言っておいて、その発言が場違いだと思ったらしい。それもそうだ。カツが直面しているのは古代の物語ではなく、痛々しいほどの現実だ。ここでこうやって話している間にも、兵たちの遺体は一刻また一刻と朽ちていく。
 
「何だい。そちらさんにも似たような話があるのかい?」
 
 だが、意外にもカツは興味をもったようだった。
 
「ええ、まあ。敵の遺体を葬ることを禁じた法に反発して処刑される、アンティゴネーという王女の物語です」
「ふうん。そいつは一体何時ごろの話なんだい?」
「二千年前くらいでしょうか」
「二千年…二千年か…」
 
 くくくとカツは喉の奥で笑った。私たちはカツが何を可笑しがっているのか全く分からなかった。
 
「いや…何。俺たちの国はあんたたちの所より二千年遅れてるのかと、思っただけさ」
 
 そう言ってまた自虐的に笑う。ミットフォードは戸惑って私を見たが、私は真っ直ぐカツを見据えた。
 
「それは違いますよ、カツ」
 
 カツはふっとその不快な笑いをやめた。
 
「アンティゴネーの命題は我々にとっても、今尚、命題です」
 
 古の物語はいつだって現代に命題を投げかけてくる。しかも決して古い命題ではない。そして、そのことは文明の時代となっても人間の本質は何一つ変わらず、もしかしたら未来永劫変わらないのではないかという畏れを抱かせる。
 
「死者に礼を尽くすべきだという神の法と、敵を葬ってはならないという人の法。どちらを守ることが人間として正しいのかと、王女は我々に問いかけてくるのです」
「もし、そうだとしてもよ」
 
 カツもまたじっとこちらを見据えていた。その顔から笑みが落ち、疲れたような表情が滲んでいた。
 
「そのお姫様の役目をするのは…俺じゃねえな」
 
 この物語はもう一つの現実を突きつける。
 
 戦。自然法と人定法の対立。男性と女性の立場の違い。王たるものの孤独。何処までも現実を模ったこの物語の中で唯一神話めいているのが、王女の呪われた運命だ。
 
 彼女は呪われたオイディプスの娘。息子とその母親との交わりから生まれた姫君。その呪いの前に母であり祖母である人は自ら命を絶ち、父であり兄でもある人は盲目となった。父亡き後、二人の兄たちは相争って相討ちとなり、一人は手厚く葬られいま一人の遺体は朽ちるままに放置されている。
 
これほど呪われた者は、現実にそういない。しかし、だからこそ彼女は命を賭して神の法を選ぶことができる。裏を返せば、全てを失った人間でなければ神の法を…真の正義を選ぶことはできないということではないだろうか。
 
だから、目の前の男にはそれを成すことはできない。彼はその背に、未だ捨てられないものを多く抱えているのだから。
 
「そうです。それは貴方のするべきことではないですよ、カツ・アワノカミ」
 
 妙にきっぱりと、私はそう口にした。貴方が正義である必要はない。美しい正義など、何もかもを捨ててしまっても大勢に影響のない者が成せば良い。
 
「そのような些末なことは、別の者に任せておけばよいのです」
「そうかい…これは些末なことかい」
 
 にやりとその唇に笑みが戻った。ミットフォードが居心地悪そうにこちらを見たが、私は彼には頓着せず、渋い日本茶に口をつけた。