臆病な龍 壱

  出立の鐘が鳴る。不浄を払う白い花びらが舞い、五色の旗が翻る。

 この風景を先日も見たなと思う。葬送の儀と出立の儀は元よりよく似ているのだ。どちらも都を発っていく者のための儀式だ。その行列の中心が棺であるか馬上の将であるかの違いで、どちらにせよその差異は極僅かだ。
 
 しかし天龍の葬儀のときとは違って、都大路は祭りのときのように華やいでいる。武運を祈る声が時折上がり、遠慮のない囁きや笑みに満ちている。民の無邪気は一層に残酷だ。彼らの無邪気は、将が逃げ帰ってくることを許さない。勝って帰るか、敗北して死ぬか。そもそも、そのどちらか一方の道しか彼らの念頭には存在していないようだった。
 
 雲一つない空の下。歩む兵の数は三千人あまり。その想いはそれぞれであろう。しかし、それを民の声はかき消してしまう。世継ぎの御子は周囲には分からぬように、そっと溜息を吐いた。いっそここで馬に鞭を当て、この儀式を滅茶苦茶にしてしまいたい。一瞬、そんな衝動にも駆られたが、それが出来ぬことは自分が一番よく知っていた。
 
 昃大門の扉が大きく開いているのが遠くに見えた。あの門を潜ったらその先には美しいものも楽しいことも何一つないのだろう。そして、冬の枯草が音もなく崩れるように己は死んでいくのだろうと、御子はぼんやり考えていた。
 
 
「御子は桃霞姫様とお親しいのですね」
 
 御子の軍装を外しながら、山鼬が言った。ここは都から街道を西へ半日ばかり歩いた所である。人家も疎らとなり、両脇には青々と田が広がっていた。常に厳めしく鎧っていてはとても芙湖の砦までもたないと、鎧を一度脱ぐことにしたのだ。そうでなくとも、この半日の間は殆どずっと馬上にあって、御子は既に気が遠くなりそうだった。
 
 無論、それが許されるのは御子だけだ。他の者たちは御子の軍列の威儀を保つためにも軍装を解くことは許されなかった。
 
「親しくはないさ。あっちが一方的にいろいろと贈ってくるだけだ」
 
 街道沿いに植えられた柳の街路樹の下に蟷螂が御子の椅子を用意した。普段御子の従者は蟷螂の一人きりだが、それでは具合が悪かろうと王に無理矢理つけられた他の従者たちも忙しく茶を淹れたり、軽食の用意をしたりと忙しない。そこで山鼬が彼らに代わって御子の軍装を解いていた。
 
山鼬はこの軍列の副将の片割れであり、そんなことをする立場の者ではない。山鼬にはあまり己の役割や身分に拘らないところがある。部下に対しても鷹揚ではないし、以前彼を供として狩りに出かけたときなどは湧水の場所などを把握して、手ずから清水を汲んで寄越したものだった。
 
 どんなに世話を焼かれようと、御子は玉一族から嫁を貰っている山鼬が嫌いだった。山鼬もまた御子が己に心を開くことがあり得ないことも承知している。別に御子と懇意になろうと努力している訳でもなく、ただ単に職務に心を砕く男なのだ。だから世継ぎの御子を亡き者にせよとの王命が下れば、何の躊躇いもなく剣を抜きそうなのもまた山鼬であった。
 
「それに、これがあの姫の本意なのかも分からないしね」
 
 重たい鎧をすっかり外してしまうと、御子は一つ伸びをした。沈み込むように用意された椅子に腰かけ、茶に口を付ける。熱い茶が却って喉に心地よかった。
 
 茶をすっかり飲んでしまうと、御子は漸く懐から細い木の箱を取り出した。城から出る直前、姫御子付きの女官から預けられたと言って一人の兵がこの箱を差し出したのだ。中も見ずそのまま懐に入れてきたのだが、改めて見てみると漆塗りの箱の中にほっそりとした銀の簪が入っていた。
 
「女物だ。何を考えているんだ」
 
 隣から山鼬が覗き込む。
 
「これは柳の意匠ですね。柳は旅から無事帰るようにというまじないに使われるものです。御子が無事帰られるようにという願いが込められているのですよ」
 
 山鼬は何を思ってその贈り物を見ているのだろう。その眦の下がった目からは、若い恋人同士が微笑ましいという想いしか見いだせない。そしてその視線が御子にとっては滑稽でもあった。
 
「ふうん。そんなまじないがあるのだな」
 
 言いながら御子は簪を眺めた。玉は蕩けるような翡翠玉。その先に柳の葉をあしらった銀の飾りがゆらゆら揺れる。王の御息女だけあってこういったものを選ぶ審美眼だけは確かだな、と御子はちょっと感心した。しかし、女物の簪を髪に飾るわけにもいかず、帯に挟み込む。
 
 蟷螂が今度は卓子を持ってきた。その上に次々と菓子が並べられる。干し棗、紐を縒ったような形の揚げ菓子、餅に蜂蜜を混ぜたもの、胡桃などの木の実の類。卓子から溢れそうなくらいだったが、御子はただ棗一つ小さく噛んだ。
 
「…ここでどれくらい休憩できますかね?蛇目殿」
 
 御子の両脇には副将、玄龍と山鼬の席が用意されていた。しかし、玄龍はまだその場におらず、玄龍のお目つけのような男が代わりにその席の側に立っていた。山鼬はとりあえずこの男に声をかけたのだ。
 
「四半刻ほど」
 
 男は素気ないほど静かに答えた。龍の一族の特徴である黄金の髪と恵まれた体躯を持った四十前後の男である。御子はその男を知っていた。だが、御子の記憶の中の男は今ほど醜い顔をしていなかった。
 
 男は名を蛇目という。亡き天龍の副官だった男だ。天龍と同じ髪の色を持ちながらその目の色は冷たい鉄のような色で、また眼光も鋭かった。更に今は以前とは違って、顔の中心、左の眉の上から右の頬にかけて斜めに傷跡が走っている。まだ古傷とは呼べないような傷で、傷跡はつるつると光り、盛り上がっていた。
 
 御子は幼い頃から今まで、何度もその男を見たことがあった。いつも天龍の傍らにあって岩のように無口な男だった。時折、天龍が戯れるように声をかけたが、それにもただ面倒そうに答えるだけ。子ども心に、彼らは仲がいいのか悪いのかと戸惑ったことを憶えている。
 
 いつ彼は顔の真ん中に傷など負ったのだろうか。天龍の死と何か関係があるのか。以前から恐ろしげだった顔が更に恐ろしくなったことに、この男は何を思っているのだろう。見ただけでは、彼の内心は全く分からなかった。
 
「そんな。皆、せめて半刻は休みたいと思っておりますよ」
「そのようなことでは、宿場に着く前に日が暮れる」
 
 山鼬は愛想よく声をかけるが、蛇目は突き放すように答えた。
 
「そんなことはありません。今日の宿場は秋蔡ですから、のんびり進んでも夕刻には十分間に合うでしょう。玄龍様は御存じのはずですが」
「…そのような悠長なことでは雨季前に柳環関は越えられん。もう一つ先の荊山まで行くべきかと思うが?」
「蛇目殿。誰もが貴方がたのように休まず歩けると思わないでください。それに今回は御子の供だということをお忘れなきよう」
 
 ねえ?というように山鼬が気安く御子に笑いかけた。
 
「私に同意を求められても、私はこの旅の行程も知らされていないよ」
「おや。そうだったのですか?」
 
 白々しく山鼬は笑った。蛇目は従者に声をかけて地図を持ってこさせた。卓子の上の菓子が一時的に避けられ、絹布に描かれた地図が広げられる。
 
「こちらが都。この街道を西へずっと進みますと秋蔡、荊山、馬閣、泉楼と街が続き、五日ほどで宝洛に着きます」
「ああ、その街は知っているよ。五つの街道が交わる大きな街だろう」
「ええ。その五つの街道のうち龍街道を進みます。すると約十日で龍の本城のある清淵に着きます。清淵から北へ。すると五日後には柳環関に、そこを越えて更に五日程で芙湖の砦です」
「そうか」
 
 自分で旅の行程を知らされていないと言いながら、御子はそれほど興味がなさそうに蛇目と山鼬の説明を聞いた。御子の関心はここにいない者に移っていたのだ。
 
「蛇目」
「は」
 
 御子に直接声をかけられたので、蛇目は御子の目前に跪いた。
 
「…玄龍は何処へ?」
「先ほど、馬を見に」
 
 蛇目がまた素気なく答えた。
 
「馬を?」
「ええ。玄龍様は乗馬を大事になさりますので」
「ふうん。この私に顔を見せることよりも馬の世話が大事か」
 
 ふっと明らかに蛇目は不快感に顔を歪めた。傷のせいかその歪みは顔全体を引き攣らせた。
 副将がまず御子に顔を見せるのは道理である。それを指摘されて不快に思うのはあまりに図々しい。だが、御子はこの無愛想な男が何を不快に感じているのか、容易に察することができた。
 
「…お前、聞いているのだな?私が王の御前であれのことを何と呼んだか」
 
 蛇目は返事をしなかった。だが、彼の発する不遜なほどの不機嫌さが彼の答えを教えてくれた。龍は代々武門筆頭である大将軍の位を戴く家柄。晨国の初代王黎明王のために天から遣わされた龍がその祖と言われ、この国の中でも名家中の名家である。王でさえ丁重に扱うその一族の、しかも長の実子を嘲笑したのだから一族の者が憤るのは当然だった。
 
「そうだ。私はお前の主を皆の前で臆病者と呼んだよ」
 
 しかし、御子は頓着しない。寧ろ、微笑んで見せるぐらいの余裕があった。
 
「別に根拠のないことではないのだろう?火のないところに煙は立たないと申すではないか」
 
 刹那、俯いていた蛇目がちらりと視線を上げた。その視線に、御子はぞっとして体を強張らせた。ああ、この男は人を殺す者だと容易に察せられる。理屈ではなく本能的な恐れだ。もう少し蛇目が御子を見据えていたら、御子は椅子から転がり落ちて詫びていたかもしれない。しかし、そうはならず蛇目は静かに視線を戻した。
 
 それはあまりに刹那のできごとだった。ただの視線に取り乱したことを周囲に悟られたくなくて、御子は平静を装い話し続ける。
 
「天龍の葬儀の日は王宮中、その話題で持ち切りだった。皆、噂を知っていたが、あれは噂通りのようには見えなかったからな。初めて王宮に来たというのに堂々と振る舞っていたし、特に緊張しているようにも見えなかった。お前、どうしてあのような噂が流れているか知っているか?」
「存じません」
 
 蛇目は短く、投げ捨てるように答えた。もうこれ以上のことは言わないという気迫が言葉に滲んでいた。
 
「御子」
 
 脇から山鼬が口を挟んだ。彼には蛇目の静かな怒りが届いていないのか、平然と笑っている。
 
「己の主を貶めるようなことを、蛇目殿は口が裂けてもおっしゃりませんよ」
 
 そして蛇目の方へも微笑みかける。
 
「私もちょっとした噂を聞いております。蛇目殿」
 
 山鼬は眦が下がっているせいか、笑うと本当に人の好い笑顔になった。
 
「聞いたところによると、天龍様が玄龍様を戦場から追い返されたとか」
 
 蛇目が視線を山鼬に向ける。あの視線だ。しかし、山鼬は刃のような憤りを感じないのか平然としている。
 
「天龍様は御子息のことをその…まだ初陣には早いとお考えだったのではありませんか?」
 
 薄暗い喜びがじわりじわりと御子の胸に広がった。玄龍が父親に疎まれたということが、これほど己に喜びを齎すとは思わなかった。目下の者の不幸を喜ぶのは浅ましいと思いながらも、自ずと湧いてくるものを止められない。
 
「…そのようなことは…」
 
 蛇目の返答も今回は歯切れが悪かった。そこへ追い打ちをかけるように山鼬は口を開く。
 
「蛇目殿。玄龍様の名をお守りしたいのは分かりますが、玄龍様は今、大事なお役目の最中です。もし、この噂が誤解だとおっしゃるならば、詳細をここで詳らかにし誤解を解いておかれた方がよろしいと思いますよ」
 
 堂々と山鼬は正論を言った。彼がこうも事の真相を聞きたがるのはただの好奇心からだろうと御子は思った。
 
 周囲は妙にしんとしている。御子が座る周囲に幕を張ったり、茶を運んだりしている従者でさえ一度手を止めている。山鼬の配下にある狼の一族の者達はそれぞれ興味があるだろうし、龍の者は龍の者で蛇目がどう答えるのか気になるのであろう。
 
「山鼬の言う通りだ、蛇目。いざというときに役に立たないような者が副将では私とて安心して旅を続けられないよ」
「…そのようなことはございません」
 
 きっぱりと蛇目は言い切った。御子がすいと目を細めた。
 
「随分と信頼されているものだな、玄龍」
 
 はっとして蛇目は振り返った。見れば彼のすぐ背後に、玄龍が立っていた。異様な張り詰めた空気を不思議に思いながらも、話題の中心がどうやら自分らしいということは察しているようだった。
 
「お前は副将だ。何も言わず大将の側を離れるものではないよ」
「申し訳ありません」
 
 玄龍は素直に謝りながら、蛇目の隣に膝をついた。
 
「今、丁度お前の話をしていたんだ。お前、天龍に戦場から返されたそうだね」
 
 少年はちらりと顔を上げた。何故、御子がそれを知っているのかと訝しそうに眉を寄せたが、答えは淡泊だった。
 
「はい」
「その理由な何なのだ?お前は知っているだろう?」
「恐れながら」
 
 玄龍が答える前に蛇目が割って入った。
 
「それは当家の…いや、親子の間のこと。御子には関わりなきことでございます」
 
 断固とした言い様だった。
 
「いや…蛇目殿。それでは御子も御納得されまい」
 
 そう言う山鼬をも鋭く遮る。
 
「腕が不安だと申されるなら、この場でご覧にいれましょう」
 
 この申し出に一番驚いているのは玄龍自身だった。きょとんとして己のお目付け役の横顔を見上げた。
 
「この場で玄龍の武芸の腕前をお見せしましょう。それならば、御子にも満足いただけると思いますが」
「なるほど。それも面白いね」
 
 御子はぽつんと呟いた。天龍親子の間にどんな問題が横たわっていたのかも大いに気になるところであるが、この少年の武芸の腕とやらを見てみるのも面白そうだと思ったのだ。
 蛇目はゆらりと立ち上がり、龍の者に鍛錬用の長杖を持ってくるように言いつけた。
 
「蛇目…」
 
 玄龍が心細げにお目付け役を見た。どうやら彼は不服なようだったが、蛇目は己が主の意向など全くもって無視していた。少年は困惑して、御子を見た。
 
「御子。ここは往来ですし…」
「別に構わないだろう。どうせ我々が通っている間は誰も通らないだろう?で、誰が相手をするのだ?山鼬。お前がするか?」
「やめてください。龍のお方と手合せするなどとても無理ですよ」
「相手は私が務めます」
 
 差し出された長杖を無造作に受け取りながら、蛇目が言う。玄龍は益々気乗りしない様子だった。しかし、このお目付け役が一度言い出したら引かないのを知っているのだろう。渋々長杖を受け取った。
 
「過保護が過ぎるのではないか?」
 
 からかう様に御子が声をかけたが、蛇目は見向きもしなかった。
 
「随分と不遜な男だな」
 
 蛇目と玄龍は互いに距離をとって向かい合った。その二人を取り囲むようにしてぐるりと人垣ができる。
 
「御子が言い過ぎなのですよ。龍をこれ程、軽んじた方はおられなかったでしょう」
「お前こそ…」
「私は身の程を弁えたことしか言っていませんよ」
 
 蛇目は低く腰を落とし、両足を左右に大きく開いた。長杖は右手で持って背に負うようにし、左手は玄龍に向かって突き出されている。その巨躯は岩のように一部の揺るぎもなく、長杖の重さも全く感じさせない。
 
 対する玄龍の構えはこじんまりとしていた。足を前後に開き、長杖を両手で体の脇にぴたりと寄せている。きんと張り詰めて動かないのは蛇目と同じだ。ただ、背に羽織った漆黒の外衣だけが風に舞っている。
 
 御子はじっと玄龍を眺めていた。確かに彼は成人した男たちに比べるとずっと華奢だ。だがその体には緩んだところなど少しもなく、野にある獣のようだった。日に焼けた肌と静かだが堂々とした眼差し。御子は知らず知らずのうちに手を握り締めていた。温めなければ血の通わない指先。ふわふわと頼りない白肌。目の前の少年と己とが同じ生き物とは思えなかった。
 
 山鼬はそんな御子の様子に気づいたようで、何やら意味ありげに笑った。それから玄龍たちの方へ向き直ると、ゆったり口上を述べ始めた。
 
「え~ただ今より、龍の玄龍様と龍の蛇目殿の模範試合を始めます。僭越ながら私が号令を掛けさせていただきます。お二人とも準備はよろしいですね?」
 
 玄龍は微かに頷いた。蛇目は返答しなかったが、それもよしという意味と判断して、山鼬は片手を掲げた。
 
「始め」
 
 先に地を蹴ったのは蛇目の方だった。長杖が大きく空を掻く。ぶんと風を裂く音が御子の方まで届いた。
 
「おやおや。手加減をなさるために相手を引き受けられたのかと思いましたが…全くそのつもりはないようですね」
 
 山鼬が面白そうに言った。
 
 玄龍は最初の一撃を斜めに受け、身を翻すようにして受け流した。だが、次の瞬間には二撃目がその目前に迫っていた。蛇目はその巨体に似合わず風のように速い。がっと長杖同士がぶつかる音がして、玄龍が大きく背後へ飛び退った。自分が飛ぶことで衝撃を和らげたのだ。
 
 甲冑を身に着けてこれだけの動きができること自体が、称賛に価した。山鼬もさすがに感心した面持ちで二人の龍の手合わせを眺めていた。
 
「なるほど。手加減は必要ないという訳ですか」
 
 玄龍はすぐさま体勢を立て直した。片手で軽々と長杖を持ち変えると、蛇目の足元を払った。蛇目は素早く反応して、それを受ける。力押しになると玄龍が引いたが、直ぐに次の一撃を繰り出した。ひらりと漆黒の外衣が空を舞う。玄龍の一撃は鋭く、蛇目の巨躯が一歩退いた。
 
「…つまらないな」
 
 御子がぽつんと呟いた。
 
「手合わせを見るのはお嫌いで?」
 
 山鼬は二人の手合わせに完全に魅入られているようで、視線を逸らさないまま口先だけで御子に答えた。
 
「…そういう問題じゃない」
 
 蛇目の長杖の先が地面を抉り、砂埃が煌めきながら散る。玄龍はそれを的確に避け、蛇目の側面に回る。
 
「私はただ…玄龍が使い物にならない奴だったらよかったと、思っていただけだよ」
 
 山鼬はその言葉を受けて、少し笑ったようだった。
 
 どうも腕の方は老練な蛇目の方が上のようだった。ややもすると玄龍は押され、後退する。玄龍が下がって間合いを取ろうとしても、体格の大きい蛇目がすぐに踏み込んできてしまうのだ。しかし、さすがに甲冑を付けたまま全力でやり合っているので、蛇目は次第に息が上がってきた。玄龍はまだ息を切らしていないところをみると、ここから先は玄龍の方が有利だろうか。余興にしては随分と長く立ち会っている。そろそろ止めろと声をかけるべきか。
 
 そう御子が考えた刹那だった。
 
 蛇目の長杖が大きく宙を薙いだ。特別な手だった訳ではない。打ち合いには拍子がある。時にはその拍子をわざと崩して相手の隙を作ることがあるが、蛇目の手は決してそうではなかった。
 
 拍子を崩したのは寧ろ玄龍の方だった。僅かに、ほんの僅かに身を引くのが遅れた。その結果として長杖の先が彼を捕らえ、彼は左後方へ吹っ飛ばされたのだ。
 
「玄龍様!」
 
 龍の誰かが声を上げた。玄龍は何とかそれほど無様にならずにしゃがみ込むような姿勢で着地をした。両手は地面についていたが、片手にはまだ長杖を握っていた。
 
 ぱたぱた…と音をたてて、彼の両手の間に大粒の滴が落ちた。それは紅い血だった。玄龍は痛そうな顔一つせず、事もなげに傷口を手で押さえると御子の方へ向き直った。
 
「見苦しいところをお見せしました」
 
 額から溢れた血は頬を濡らし、その肩まで滴っている。御子は思わず目を逸らした。
 
「本当だよ。さっさと行って、どうにかしておいで」
「はい。失礼します」
 
 玄龍はそれでも片膝を着いて一礼し、龍の者達が集まる方へと歩いていった。
 
「…蟷螂」
「はい」
 
 いつの間にか側に控えていた従者が答える。
 
「あの血をどうにかしてくれ。気分が悪くなる」
「あ…はいはい。御子は血が苦手でしたね」
 
 余計なひと言を言いながら蟷螂はさっと立ち上がると、側まで行って血の痕に上から土をかけた。一人残された蛇目は呆然とその血痕を見ていた。まさか、玄龍に傷を負わせることになるとは思いもしなかったのだろう。
 
「何故…」
 
 誰に言うでもなく蛇目は呟いた。さすがの彼も混乱し、咄嗟に自分がどう動けばよいのか分からないらしい。
 
「…それからお前もだ、蛇目。さっさと手当をしてくるがいい」
「手当?」
 
 声をかけてきたのが世継ぎの御子だということを忘れたかのように、蛇目はただ茫然とした瞳を向けた。
 
「気づいていないのか?」
 
 そう言って御子は蛇目の腹の辺りを指差した。甲冑の隙間から見える衣が紅く染まっている。
 
「傷が開いたのではありませんか?蛇目殿」
 
 山鼬が心配そうに声をかけた。そこで蛇目が何かに合点がいったらしい。御子に対する礼もそこそこ、玄龍のいる方へ駆けていった。
 
「…なんとまあ…玄龍様はある意味、戦には向かぬお方のようですね」
 
 言葉とは裏腹に、山鼬の声音には感嘆するような響きがあった。
 
「蛇目殿の傷が開いているのに気づかれて、手合わせを終わらせようとなさったのでしょう。蛇目殿ほどの方の長杖を自ら受けるのは相当の胆力が必要ですよ」
「そんなの、一言声をかければ済む話だろう。馬鹿馬鹿しい」
 
 御子は投げ捨てるように呟いた。
 
「そこはそれ。まだお若い方ですから御子の御前でそのようなことをしてもよいのか、迷われたのでは?」
 
 
 御子は苦々しい顔のまま、卓子の上に置かれた干し棗に手を伸ばし、また一つ小さく噛んだ。