「若いということはいいものだな。実に羨ましい」
英国駐日公使ハリー・パークス長官はテーブルの端に落ちていたビスケットの粕をぴんと指で弾いた。丁度それが飛んだ先に立っていたミットフォードは顔を顰めたが、パークスは気にも留めなかった。
外交官や商人のように様々な国を渡り歩く仕事をしている者には、大きく二種類の人間がいる。現地の風俗に溶け込もうとする者と、異国に己の国の習慣を持ち込もうとする者だ。パークスは典型的な後者で、床に座ることなど自分の足の構造上不可能だと本気で信じていたし、茶にはミルクと砂糖を入れなければとても飲めないと思っていた。慣れてしまえば家具の殆どない日本家屋でも十分快適に暮らせるし、澄んだ翡翠色のお茶も美味しく飲めるものなのだが、長官はあくまでイギリス風を貫くのだ。
借りている寺の一室にカーペットを敷き、テーブル・椅子のセットを取り寄せ、ビスケットを齧りながらティーカップで紅茶を戴く。如何せん全てが急ごしらえで、タタミの上の椅子はがたがたするし、紅茶は黴の匂いがした。そうまでして英国式を貫く愛国心は尊敬に値するが、聊か滑稽でもある。
「若い者はどんな過酷な環境にも楽しみを見出すことができる。川下りに寺参り。未知の場所への冒険。結構。この暑い中、御苦労なことだ」
暑いと思っているならさっさとこの状況から解放して欲しい。パークス長官の前に立たされている二等書記官アルジャーノン・ミットフォードと同じく通訳官アーネスト・サトウは同時に思った。唯でさえ、日本の夏はじっとりじめじめとして、纏わりつくように暑い。立っているだけでも頬を伝う汗が顎先からぽたりぽたりと落ちるのだ。加えて果てしなく続く長官の説教では、まるで拷問である。
「しかし…君たちはお忘れかもしれないが我々は公務の最中だ」
偉大なる公僕、ハリー・パークスは両手を軽く広げ、せせら笑った。
「観光を楽しみに来たわけではない」
「お言葉ですが、パークス長官」
我慢できなくなったのか、ミットフォードが口を開いた。暑さにやられて、ここで口を開くことのリスクを失念したらしい。
「…確かに少し遅くなったかも知れませんが、我々は最善を尽くしました」
ぎろりとパークス長官の青い目が動いた。皮肉に笑んでいた目から完全に笑みが消える。
「最善?君は地図が読めないのかね?それとも、最善という言葉の意味を知らないのか?」
鋭い皮肉にミットフォードは傷つきはしなかったが、ただ首を竦めた。これでこの拘束時間が10分は延長されたのが確実だ。思えば、パークス長官はこの部屋に入ったときから、黄金の縮れ毛が逆立つほどに怒り狂っていたのだ。今は何を言っても、それは虎の尻尾を軍靴で踏みつけるのと同じことだ。隣で、サトウが非難がましい目をミットフォードの整った横顔に向けていた。
「地図を開いて、草津と大坂に線でも引いてみたまえ。そうすれば宇治を通る必要がないことくらいは分かりそうなものだ」
「それは我々だって承知していました。しかし、同行の日本人が…」
ミットフォードは開き直った。ここまで来たら、10分の延長も20分の延長も同じことだ。言われるがままに我慢するよりも真っ向から戦った方が幾らか気は晴れる。
「日本人!奴らの言うことになど何一つ従う必要がない。あの忌々しい…嘘吐きどもが!」
思いも寄らずパークス長官の怒りの矛先が移った。
サトウとミットフォードはちらりと横目でお互いの顔を見た。どうもパークス長官が怒り狂っている原因は、二人の大坂着が遅れたせいだけではないようだ。
2人は長官に前田藩との開港交渉と、未だ外国人が足を踏み入れることを許さない京周辺の調査を命じられて、昨日まで金沢から大坂まで陸路を旅してきたのだった。その間、パークス長官は船で長崎に向かい、その後横浜に帰港する予定であった。それが予定を変更して大坂で二人の到着を苛々と待っていたのだから、どうやら長崎で何か面白くないことが起こったらしい。
「…長崎で誰かが殺されたのですか?」
サトウが静かに口を開いた。パークス長官はちょっと言葉に詰まったような顔をしてサトウを見た。サトウは涼しい顔をして長官を見返していた。
「いえ…長官が日本人に対して大変不愉快に感じておられるようなので」
先回りして話を進めるのがこのサトウの癖だった。
本来、パークス長官は日本人が嫌いではない。ただ自分より格下だと蔑んでいるだけだ。日本人は常にのらりくらりと決断を先送りし、いろいろと誤魔化すところはあるものの「忌々しい嘘吐き」と罵られるようなことはあまりなかった。加えて、現在の情勢を考え合わせるとパークス長官がこれほど激怒する面倒事は「同胞の殺害」くらいしか考えられないのだ。
しかし、サトウは長官に対し自分の思考回路を説明してやるつもりはない。長官はやや憮然としていた。まだ口にしていないことをサトウが言い当てたので、気勢を削がれたらしかった。
「長崎で我が国の水夫が二人殺された」
その長官の言葉を二人の青年は重々しく受け止めた。しかし、別に驚かされるものではなかった。1867年8月現在、この日本においてヨーロッパ人やアメリカ人の殺害は残念なことに全く珍しいことではない。生麦での事件を挙げるまでもなく、まだ日本では西洋人を受け入れる準備は整っていないのだ。日本に暮らすヨーロッパ人たちは眠るときには枕元に銃を置き、出かけるときは必ずそれを携帯した。それは決して過剰防衛には当たらなかった。日本の『サムライ』たちは常に腰にあの素晴らしく切れる刀を二本も下げていて、彼らがそれを抜き去るのを見たときは次の瞬間に己の首が飛んでいることを覚悟しなければならなかった。
「…犯人が捕まらないのですね?」
サトウは淡々と言った。
「そうだ」
「長崎へ出向いて当地の『ブギョー』をせっつけとの御命令ですか?」
にこりともせずに続けるサトウにパークス長官は鼻白んだ。確かに不快な顔をしたが、サトウが話の先々を読んでしまうほど優秀だからといって怒鳴りつけるわけにもいかない。
「まあ、『ブギョー』にも圧力はかけねばならないが…我々がまず相手にしなければならないのは土佐だ」
「土佐?」
さすがにサトウも聞き返した。土佐藩は今まで何度か『尊皇攘夷』を掲げて騒ぎを起こしたことがある。しかし、同じ思想をもつ者たちは日本中どこにでもいる。どうして、長官が数ある藩の中から土佐の名を上げたのか分からなかったのだ。それを長官はにやりと笑った。
「そうだ。この事件の犯人は土佐藩の人間だ」
妙に自信ありげにパークス長官は断定した。しかし、少しでも早い話の終わりを願う二人の青年は、その自信の根拠を問わなかった。
「もしかしたら、今頃大英帝国は二人の水夫に加えて、二人の優秀な外交官を失っていたかもしれないんだ。だが、我らが長官は二人の前途有望な若者の命が助かったことよりも、その二人がちょっと寄り道をしてきたことの方がお気に障るらしいね」
パークス長官が船へ戻った瞬間、ミットフォードは中国人の従者リン・フーに日本家屋に似合わないテーブルセットと絨毯を片づけるように命じた。あっという間にテーブルセットは運び出され、代わりに座布団が持ち込まれた。黴臭い紅茶と湿気たビスケットに替わって、翡翠色の日本茶と、井戸水でよく冷やされ切り分けられた瓜も用意される。
ふと、絨毯を巻き取ろうとする下男をサトウが制した。サトウは上着の胸ポケットから紙でできた財布のようなものを取り出し、更にその中から小さな和紙を取り出した。それは日本人が鼻をかんだり手を拭いたりするときに使う『懐紙』というもので、サトウはそれを使って先ほどパークス長官が弾き飛ばしたビスケットの粕を丁寧に拾い上げ、下男に片づけさせた。
やがて、床に置かれた瓜を取り囲むようにして三人のイギリス人が座布団に腰を下ろした。それぞれ上着を脱ぎ、シャツの袖を捲って寛いだ姿となる。サトウとミットフォード、そして小山のような大男が一人。
「仕方ないさ。パークス長官は君たちが刺客に狙われていたことを知らないんだろ」
「知らないだろうさ。言う暇がなかったんだから」
ミットフォードの言葉に、顎鬚を蓄えた大男ウィリアム・ウィリスはちょっと肩を竦めて笑った。その豪快な外見とは裏腹に、彼は有能な外交官であり、日本に滞在している期間もこの三人の中では一番長い。パークス長官と同じ船で大坂に着いたのだが、彼が出ていくのを待って、二人の様子を見に来たらしい。
「尤もそれは君たちにも責任があると思うよ。君たちはいつも無鉄砲で、冒険好きだ。夜中に塀を乗り越えて、花街の美女を見物に行ったりしているじゃないか。まるで悪戯な学生だよ」
ウィリスに穏やかに指摘されて、ミットフォードはちょっと言葉に詰まった。
「でも、回り道をしたのは本当に私たちの案じゃないんだ。道案内をしていた日本人たちが私たちに京の側を通らせたくなくて、わざわざ宇治を経由させたのさ。私たちだって彼らとは散々やり遣ったんだ。そうだろう?アーネスト」
サトウは先ほどからじっと黙って、パークス長官の残していった事件の資料に目を通しているところだった。しかし、話は聞いていたらしい。ミットフォードに声をかけられるとちらりと顔を上げ、にっと微笑んだ。
「ミットフォードは彼らに英語でまくしたてたんですよ。仕舞いには我々が遠回りしなければならない理由を文書にまとめろと言ってね。何度も何度も書き直させて、完成品が仕上がったのは明け方近くでしたね」
ウィリスは呆れ顔で二人の青年を見遣った。ミットフォードも己の行為が少々大人気なかったと思ったのか、拗ねたような顔でサトウを軽く睨んだ。
「何でも私のせいにしないでくれよ、アーネスト」
「そんなことは言っていませんよ、ミットフォード。君のお陰で彼らの提案を受け入れても、我々の名誉は守ることができたじゃないですか。ついでに私たちの命も拾ったわけだし」
「大津で『ロウニン』たちが君たちを待ち伏せしていたのだろう?遠回りを勧めた日本人たちに感謝しないといけないね」
ウィリスは言いながら瓜を一つ取って豪快に齧った。
「やっぱり甘くないな。日本の果物は何でも味気ない」
皿の側に置かれた手拭いで指先を拭くウィリスにサトウが声をかけた。
「ウィリス。ちょっとこれを見てくれませんか?」
サトウは手にした書類のうちの一枚をウィリスに差し出した。ウィリスは口をもぐもぐさせながらじっとその書類に目を通した。
「何の書類だい?」
「可哀想な二人の水夫の検死報告書ですよ。これは私にはちょっと分からないから」
げっとミットフォードは小さく声を上げた。ウィリスは外交官である同時に外科医でもある。この異郷の地でもその能力は如何なく発揮され、生麦事件の気の毒な犠牲者であるリチャードソンを看取ったのも彼だった。
「事件が起きたのは8月5日の深夜だそうです」
「今日が22日だから…随分前の出来事だな。私たちがまだ金沢に着く前だ」
「そう。長崎の丸山にある引田屋の門前で、軍艦イカラス号の水夫二人が殺害されました。どうも二人は酔って寝ていたところを刺されたらしい」
「それで」
ウィリスが新たな瓜を摘まみながら口を挟んだ。
「二人の遺体に、防御創がないのか」
「異国の路上で酔いつぶれるなんて、大英帝国の恥晒しだな」
ミットフォードはそう言いつつ、緑茶に口をつけた。
「この報告書によれば犯人は白いキモノを着た男だそうです」
「凶器は当然日本刀だな。しかし、本当によく斬れるものだ。正面からの傷なのに、背骨まで食い込んでいる。この傷では白いキモノに返り血も相当浴びたろうね」
想像したらしいくミットフィードはやや青ざめたが、意識的に歯切れよく話し出した。
「どうせいつもの『ジョウイ』だろう?しかも、長官の話だと犯人の目星がついているらしいからすぐに解決するよ」
夷狄(バーバリヤンズ)と見れば徹底的に目の仇にする攘夷論は、確固としたイデオロギーというよりは流行に近いものがあった。若者たちは熱に浮かされたように夷狄を追い払ってやると息巻いていた。しかし有能なる有識者たちは既にその思想を捨て去っており、若者たちの情熱は却って彼らの足枷となっていた。
「そうでもないと思いますよ」
サトウが穏やかに口を挟んだ。
「何か妙な点でも?」
「長官は土佐藩の者の仕業だと言っていましたし、この報告書にもそう書かれていますけど…ここには事件当日、現場近くで土佐藩の者が騒いでいたという目撃証言があるだけで、殺害状況を目撃した者は誰もいないんです」
「では君は…犯人は土佐の者ではないと言うのかい?」
「いいえ。土佐は何度も『ソンノウジョウイ』を掲げて騒ぎを起こしている藩ですし、薩摩のように血を好む者が多い。ただ、こんな証拠だけでは、関係ないと突っぱねることもできると思っただけです」
「…それは…また面倒なことになりそうだ」
ミットフォードが渋い顔をすると、サトウは自分が悪いわけでもないのに少し申し訳なさそうな顔で笑った。
「一ついいか?」
ウィリスが再び口を挟んだ。
「ちょっと気になったところがあるんだが…」
「何です?」
「生麦で殺されたリチャードソンはずたずたに斬られて、何の抵抗もできなくなっているところを、更に喉笛を斬られて死んでいた」
ウィリスの話にミットフォードは聞きたくなさそうな顔をした。対してサトウはしんと静かな焦茶色の瞳をじっとウィリスに向けた。
「まあ、あれは暗殺ではないから事情がちょっと違うかもしれないが…。フランス狙撃兵将校カミュス氏が殺されたときは聞いていると思うが…」
「右手が手綱を握ったまま落ちていたって話なら聞いたよ」
「そう。頬、鼻、顎、喉笛を刺されて右頸動脈は切断されていた。これだけでも致命傷なのに、脊柱は完全に割られていたし、左わきは心臓まで斬り込まれていたらしい。ボードウィン少佐とバード中尉が殺されたときは…」
「彼らが『惨殺』されたのは聞いている。別に生し返さなくてもいい」
とうとうミットフォードが話を遮った。両手が半ば耳を塞ぎたそうに宙で止まっている。
「つまり、傷が少ないということですか?」
先ほどウィリスから返された書類に目を通しながら、サトウが問うた。
「見たところ二人とも一カ所ずつしか傷がありませんね」
「そう。つまり犯人は酔いつぶれている二人の急所を、的確に一カ所ずつ刺したんだ」
ウィリスが重々しく言い、サトウの顔は冷たく冴えた。間に座るミットフォードは二人の顔を見比べて眉を寄せた。ウィリスがにやりと笑って、サトウを見遣る。
「さて、アーネスト。君の考えを聞かせてもらおうか?」
まるで問題の解法のヒントを散々教えた後の教師のように、やや意地悪くウィリスは問うた。しかし、サトウは実に優秀な生徒役だった。今までこういった事件が起きる度こうして話し合ったものだが、サトウの予想は後に捕まった犯人像といつもぴたりと一致してきたのだ。
サトウは目を伏せて、栗鼠のように首を傾げた。
「犯人は…1人」
サトウが、確かめるように呟いた。
「冷静沈着な人物で、内心を明かさない。だけど心の内でいろいろと思案を重ねるタイプの人間で、実は激しやすくもある。教養はあり、神経質。それくらいですね…ここから分かるのは。それから、証言者が嘘を吐いている」
ほうっとミットフォードは感心したような声を上げた。
「どうしてそう思うんだい?」
サトウは控え目に微笑んだ。
「簡単なことです。2人以上の犯人がいれば傷は必ずもっと多くなる。それぞれが別の急所を狙うでしょうからね。だとすれば、犯人は1人。殺された2人が酔い潰れていたのが突発的な出来事だとすると、これを1人で遣り遂げるには冷静さが必要です。一方でその場で殺人を決意するのですから激しやすい面があるのでしょう。酔いどれを不快に思ったのでしょうから、教養があって神経質な人物だと思ったまでです」
「証言者が嘘を吐いているというのは?」
「それは…ミットフォードなら分かるでしょう。裏路地ならいざ知らず、店先で誰かが倒れていて、彼らが殺されたのに誰も気づかないということが有り得ますか?必ず目撃者がいるはずです」
「それはそうか」
ミットフォードは素直に驚嘆した。その称賛をサトウはこそばゆそうに聞いていたが、ふと渋い顔をしているウィリスを見て顔を引き締める。
「…もしかしたら…2人は意図的に酔い潰されていたのかもしれないな」
ウィリスの提言にミットフォードもまた、顔を強張らせた。
「…そうなると、事件の様相は少し変わってきますね。どちらにせよ、現場に行ってみないと何とも」
「君たちは実際に捜査することになっているんだろう?私は長官と一緒にいることが多いから安全だと思うけど、君たちは用心しないと。特に美女と美酒に気を付けるんだよ」
友人の心のこもった忠告を受けてサトウとミットフォードは顔を見合わせたが、やがてどちらともなくにたりと笑った。
「心配ありませんよ、ウィリス」
「そうさ。それに美女も美酒もちょっと危ない方が面白いじゃないか」
ウィリスはしばらく呆れて二人の青年を見遣っていた。つい昨日、自分たちも命が狙われたというのに能天気な若者二人はもう忘れてしまっているのだろうか?
「だから…君たちは無鉄砲だって言っているんだよ」
ウィリスは溜息交じりに言って、微かに苦笑した。