江戸氷川にて
  夜の闇に、雨が音もなく降っていた。
 
   日本語は実に雨の表現が多様だ。今宵降る雨にふさわしい言葉だけでも、幾つか思い浮かぶ。春雨。霧雨。小糠雨。花散らし。この国では雨でさえ、それぞれが美しい名を持っていた。
 
   雨はエンガワまで濡らしていた。アンドンの灯りでてらてらと光る板の上に、白い花びらがひとつふたつ張りついている。春、三月。庭で枝を広げるサクラが、雨に散っているのだ。
 
  「…入ったらどうだい?」
 
   部屋の主はこちらを見ないままで言った。背中を丸めて、じっと庭のサクラに向けて煙草の煙を吐いている。サトウは黙ってフスマを閉めた。
 
  「すみませんね。遅い時間に」
  「いんや。そうでもしねぇと、周りの目が五月蠅ぇだろ?」
  「…何処かへ出かけていたのですか?」
 
   そう問うと、相手の背は少し笑ったように思えた。
 
  「出かけねぇ日はないよ。寝る間もねぇくらい忙しいのさ」
 
   彼はじっと身動きすらせずに答えた。漆黒のハブタエにハカマという半正装の彼は、半ば闇に溶けている。吐き出す煙だけがゆらゆらと白く揺れていた。
 
  「そちらさんこそ、いろいろ大変だったそうじゃねえか」
  「ええ。二度ほど死にかけました」
 
   それは少しも冗談ではなかった。日本人による襲撃を受けたのである。一度は神戸、一度は京だった。一度目のときは頭上を銃弾が飛び交い、二度目の襲撃のときには目の前に白刃が翻るのを見た。正しく九死に一生であった。
 
  「ですが、薩長の兵がそこまで来ている今は、貴方の方が命が危ないのではないですか?」
 
   サトウは手に帽子を持ったまま、その背へ問うた。
 
   懸念されていた通り、とうとう内乱が勃発したのだ。まずは江戸で。それが京に飛び火した。大坂城に籠城していた大君は京での戦に敗れると、多くの兵を見捨てて江戸へ逃げ帰ってしまった。大将を失った大君軍は総崩れとなり、雪崩れるように江戸に帰還。勝ち誇った薩長の兵がそれを追って、進軍しているところだった。
 
   かつんと灰を落とし、男は初めて肩越しに振り返った。
 
  「知ってるかい?サトウさん。俺は今や軍事取扱なんだぜ」
  「それは…貴方が大君軍の軍事上のtop…一番上ということですか?」
  「そうさ。全く…面倒なことになると俺を持ち上げやがる」
 
   けけっと意地悪い笑みを浮かべてから、男は初めて気づいたようにちょっと目を細めた。
 
  「いつも一緒の別嬪さんはどうしたんだい?」
  「ミットフォードなら大坂に置いてきました」
 
   しれっとサトウは言った。
 
  「長官にミカドの政府との連絡役を命じられたのです」
  「あのお人がかい?その役目だったら、お前さんの方が適役だろう」
  「そんなことはありませんよ。彼はもう日本語は十分話せますし、新しい政府の連中が知りたがっている議会や法律のことについては私より詳しいんです」
 
   サトウは淡々と言ったが、カツが意味ありげに笑うので次第にむすっとした表情になった。
 
  「…ええ、お察しの通りですよ。私が彼にこの仕事を押し付けたんです」
 
   ミットフォードの恨みがましい目を、サトウは思い出した。彼がそんな顔をしたのも無理はない。公使館員で大坂に残るのは彼一人で、その結果、彼は大坂にいる唯一の西洋人になってしまったのだ。その孤独な生活が一体、いつまで続くのか。それは誰にも分からなかった。
 
  「彼には悪いと思いましたが、どうしてもこちらへ戻ってきたかったのです」
  「ふうん。どうしてだい?」
  「貴方に会うためですよ。カツ・アワノカミ」
 
   そう言って、サトウはカツの隣に少し離れて座り込んだ。
 
  「…煙草を呑むかい?」
  「いいえ、結構です」
 
   そうかいと言ってカツは押し出した煙草盆を引っ込めた。
 
  「先日、貴方にお話ししたことを憶えていますか?」
  「ああ。あの水兵殺しの一件かい?」
  「ええ。あの事件について、大坂でもいろいろと分かったことがありました。真相は貴方の考えとはちょっと違っていたようです」
  「へえ、そうかい」
 
   カツは大して悔しそうな様子もなく、素気なかった。
 
  「まず、あの唄を作ったのはサイダニではありませんでした。私は…あの唄の草稿を手に入れたんです」
  「長崎の奉行所に出されたんじゃなかったのかい?」
  「ええ。サイダニがずっと持っていたようです」
 
   そう言って、サトウは胸元から例の書状を取り出し、畳の上に広げた。ちらりと視線を向けたカツは、その端を染める赤茶色の染みに気づいて眉を寄せる。
 
  「…サイダニは殺されました」
 
   サトウはさらりと言った。
 
  「昨年の十一月十五日。京の近江屋という宿で」
 
   ちらっとサトウは目を上げて、カツの表情を伺った。カツはただゆっくりと煙を吐いた。
 
  「そいつは物騒なことだね」
  「驚かないのですか?」
  「どうしてだい?」
 
   サトウは黙って答えなかった。カツは二、三度煙草を燻らしたあと、サトウを見ずにちょっと笑った。
 
  「…誰に聞いたんだい?」
  「ムツ・ヨウノスケ ― 陸奥陽之助 ―という男です。サイダニのことを詳しく知りたいと言ったら、ゴトウが紹介してくれました。サイダニの作ったカイエンタイの一員だそうです」
 
   そこまで言って、サトウはちょっと言葉を切ってから続けた。
 
  「それから、彼も…サイダニと同じく、貴方の生徒なのでしょう?」
  「陸奥の野郎も余計なことをべらべらと喋りやがるぜ」
 
   煙草盆の端を叩いて煙管の灰を落とすと、カツはよいしょと言ってサトウの方へ向き直った。
 
  「いかにも。才谷梅太郎は俺の弟子さ。本当の名前は…」
  「サカモト・リョウマ」
  「そう。龍馬だ」
  「いつから分かっていたんです?」
  「勿論、最初からさ」
  「つまり貴方は私があの男のことを懇切丁寧に説明するのを聞きながら、内心は大笑いしていたという訳ですか?」
 
   さすがにサトウは苛立たしげだった。だが、カツはちょっとも悪びれた顔をしなかった。
 
  「まあ、多少はにやにやしていたがね、買い被ってもらっちゃ困るよ。こっちだって、それほど余裕はねえ」
 
   カツの言う意味が分からず、サトウは片方の眉をぴくりと上げる。
 
  「…あいつとこの俺が師弟関係だと知れて、お前さんにいらぬ疑いをかけられたくなかったのさ」
 
  サトウはじっとカツの黒目がちの目を挑むように見ていたが、ふと視線を逸らすと黙ってもう一通の血に汚れた書状を取り出した。
 
  「こちらはサイダニがオモトに出した手紙です。筆跡がこちらの書状とまるで違います」
  「そのようだねぇ。龍馬はひでぇ悪筆さ。まあ、こっちも上手いとは言えねぇけどな」
  「それから、もう一つ。こちらの手紙に三年ぶりにオモトに会ったと書かれています」
 
   言いながら、サトウはその長い指で三年と書かれた場所をなぞった。カツはサトウの真剣さを面白がるように、煙管を弄びながらじっとサトウを眺めた。
 
  「三年…今はもう四年前になるでしょうか。貴方がたの暦でいうブンキュウ4年、当時サイダニは神戸にいて、長崎には一度出かけただけだったという話でした」
  「……」
  「カツ。彼は、貴方にお供して長崎に行ったそうですね」
 
   何か楽しい思い出でもあるらしく、サトウの言葉にカツはふと笑みを深めた。
 
  「つまり、そのとき貴方もオモトに会っている可能性があるわけです」
  「そりゃ、ちょっと性急じゃねぇかい?」
  「ムツの話しぶりでは、サイタニは貴方をほったらかしにして遊び歩くような、不埒な生徒ではなかったようですけどね」
 
   するとカツは不意に不機嫌になって、ちぃっと行儀悪く舌打ちした。
 
  「口の軽いこった」
  「確かに貴方のおっしゃる通り、これだけではやや性急な結論です。ですが、もう一つ、貴方とオモトを繋ぐ線があります」
 
   カツは眉を寄せ、サトウを見た。
 
  「ウメタロー。私はそれをサイダニ・ウメタローのことだと思っていました。しかし、あの唄を作ったのが彼ではないとなると、オモトが夢中だというウメタローは他にいるのではないかと思ったのです」
  「ふうん。二人の梅太郎に色目を使ったっていうのかい」
 
   やや下品な物言いにもサトウは顔色一つ変えない。
 
  「私はウメタローの名を…この屋敷でも聞きました。長崎のウメタロー様に何かあったかと、貴方の女中に問われたのです。しかし、サイダニ・ウメタローを知っているのかと問うたら、彼女は早合点だったと言ってそれ以上問わなかった」
  「お客に余計な口を利くとは、躾の悪ぃ女中だな」
  「お願いですから、そのせいで叱らないでくださいね。たぶん、貴方のことを考えるあまりにしたことだと思いますから」
  「俺のこと?」
  「ええ」
 
   サトウは思わせぶりに笑い、カツは眉を寄せた。
 
  「最後にオモトに会ったとき、彼女は丘の上に立って港を出入りする船を眺めていました。かつて、彼女の友人もそこで船の行き来を眺め、愛しい人の帰りを待っていたとか」
  「長崎芸子にそんな女はいねぇよ。あそこの女たちは青い目の旦那たちが絶対に帰ってこねぇことを知ってやがるからね」
 
   カツは何処か心のない調子で口を挟んだ。まるで、それが真実だと思い込みたいみたいだった。
 
  「…オモトは質素なキモノを着て、化粧も碌にせず、手に小さな包みを抱えていました。そして、その包みからは紅い風車が顔を覗かせていました」
 
   カツは思い出したように煙管に新しい葉を、詰め始めた。
 
  「思うに、ウメタローという人物はまだ子どもなのではないでしょうか。オモトの亡くなった友人と貴方に縁のある…」
 
   サトウは申し訳なさそうな目でカツを見遣った。カツは煙管に新たな火を点け直すと、また白い煙を吐き出す。
 
  「構わねえよ。そっちの梅太郎は俺の子だ。お玖磨って女に産ませたのさ。今年で(数え)五つになる」
 
   カツは相変わらずゆらゆらと煙を吐きながら、何でもないことのように言う。サトウはカツに妻がいることは知っていた。長崎にいるというその子は、彼の妻に対する裏切りだということも。でも、カツは日本人だ。日本人にとって妻の他に女性がいることも、そこに子がいることも別に珍しいことではない。
 
  「お玖磨が死んでからは、残された子の様子を時々お元が知らしてくれる。あれは俺のことは嫌ってるが、情に厚いいい女だよ」
 
   だが、サトウは飄々としたカツの内側にある何か柔らかな部分に触れてしまった気がした。もしかしたら、長崎にいた女性の死は彼の心を深く抉っていたのかもしれない。サトウは何となしに酷く居心地が悪かった。
 
  「龍馬の野郎が何で『梅太郎』を名乗ったのかは知らねぇが、確かに俺とお元は知り合いさ。それで?だからってその唄を作ったのも俺だというのかい?」
 
   サトウの遠慮などお構いなしに、カツは先を促した。
 
  「それを証明するものは何もありません。貴方の筆跡とこの筆跡を見比べてみても、私には判断がつかないでしょう。こちらの筆跡は…サイダニの字ほど特徴があるワケではありませんし」
  「そうかい」
 
   ふうんと言いながら、カツはひょいと傍らの机の上に手を伸ばし、フバコを手に取って引き寄せた。
 
  「…サトウさん。お前さんはこいつをどう思う?」
 
   フバコから一通の書状を取り出し、サトウに差し出す。宛名も差出人もない。サトウは訝しげに眉を寄せたまま、畳まれたそれを開いた。
 
   中もまた真っ白であった。ただ小さな紙切れが入っており、そこに二つの文字が走り書きされているだけだった。
 
  「…とび…川?」
 
   カツはにやにやと目を細めて笑った。その顔を見、サトウは再び紙切れに目を落とす。
 
  「…飛川…ひ…かわ…?確か…この屋敷の前の坂を上ったところにあるジンジャの名は…『氷川神社』。ここの地名も氷川と言いましたね。これは…もしかして貴方の変名ですか?」
  「御名答」
 
   それを聞いてもサトウは訝しげに紙切れを見つめたままだった。ちぎり取られたような紙の端をじっと眺めているうちに、サトウは急に例の唄が書かれた書状を引き寄せた。『飛川』と書かれた紙切れと書状の端を合わせると、その破れ目がぴったりと符合する。
 
  「これは…」
 
   アンドンの灯りに顔の片側だけ照らされて、カツは悠々と煙草を呑んでいる。その顔がゆっくりと笑みに歪むのをサトウはぼんやりと眺めていた。
 
  「やはり…貴方があの唄を?」
  「なかなかいい出来だったろ?苦労したんだぜ」
 
   サトウは顔を顰めた。作った本人に謎解きの知恵を借りるという実に間抜けなことをしてしまったのである。だが、今はそんなことを問い詰めている場合ではなかった。
 
  「…ですが…どうして貴方がこれを?」
 
   サトウは『飛川』と書かれた紙切れを取り上げて、カツに示した。カツはすいと目を細める。
 
  「さてね。お前さんが解いてごらんよ」
 
   サトウの脳裏に、大坂で一人留守番中の親友が立てた仮説が浮かんだ。
 
   この署名を取り戻すためにカツがサイダニを殺した?いや、カツが自ら、ということはなさそうだ。では、誰かに命じたのか。
 
   愛弟子の、暗殺を。
 
   サイダニの弟分でありカツの生徒でもあったというムツは、サイダニを…サカモトをカツの第一の弟子だったと言っていた。その弟子の暗殺をカツが命じたというのだろうか?
 
   違う…とサトウは心の内で呟いた。何故、違うのか。その明確な根拠はなかったが、ただ違うと感じたのだ。もしかしたら、ただ違うと思い込みたいだけなのかも知れなかった。
 
  「…サイダニは…あのときオモトの部屋で…この署名を見て、この唄を作ったのが貴方だと知ったんでしょう」
 
   サトウは脳を満たした仮説を一度廃して、冷静にあの時のことを思い出そうとした。
 
   あの時…この手紙を見つけ出したサイダニは、誇らしげに声を上げていたように思う。だが、次の瞬間、彼は表情を強張らせた。一度は差し出した手紙を結局はこちらに渡さなかったのも、彼があの時にこの署名に気づいたからだろう。
 
  「それで?」
  「…この署名のある紙片は血に汚れていません。これが破られたのは、サイダニが殺されたときよりも前だと思われます」
 
   カツは一瞬、ひょいと眉を寄せた。
 
  「…これを破ったのは…サイダニ自身」
 
   敢えてゆっくりと、言葉のひとつひとつが響く様にサトウは言った。
 
  「土佐の命運を賭けようとも、サイダニには…貴方を我々やブギョー所に売ることはできなかった。だから、この署名の部分だけを破りとって貴方に送った。そういうことではないでしょうか」
 
   一瞬、カツは酷く苦いような顔をした。だが、次の瞬間、崩れるような笑みを浮かべる。
 
  「サトウさん。お前さんも意外にお優しいね」
 
   カツが蔑むように言ったので、サトウは顔を顰めた。
 
  「それが正解なら、あいつは随分と甘ちゃんさ。覚悟が足りねぇや」
 
   覚悟という言葉がひやりと冷たかった。師を庇ったことを、その当人に覚悟が足りないと言われてはサイダニも浮かばれない。そう思ったが、次の瞬間には別の想いが浮かんだ。
 
   先日、『セップク』というものを見た。それはただの罪人に対する罰ではなく、己の名誉を己の死で救うための儀式だった。腹を切る男の首を落とす『カイシャク』人は男の友人や弟子など親しい者の中から腕の立つ者が選ばれるという。
 
   大義のために、愛する者の命を奪う覚悟。この国の男たちはそういう覚悟ももっている。その覚悟は己が死ぬこととどちらが重いのだろうか。例えば国のために自分が死ぬことはできても、ミットフォードを殺すことなどサトウにはできそうになかった。
 
  「それなら、貴方はどう考えているのです?」
 
   この飄々とした男の内にあるその冴え冴えとした覚悟を、薄情と呼ぶ人もいるだろう。だが、彼にとってはその非難を受けることもまた、覚悟のうちなのだと思えた。
 
  「何も。この紙切れだって、送り主の名前もなしに送られてきたんだ。俺の知ったことじゃねぇ」
 
   はぐらかされて、サトウは憮然とした。
 
  「その言い方は卑怯ではないですか?」
  「ちょっとくらい卑怯じゃねえと、この御時勢、渡っていけねぇよ」
 
   カツは、煙と一緒に笑みを零した。
 
  「サイダニも似たようなことを言っていましたよ。真っ直ぐな者ほど…」
 
   言いかけて言葉を飲む。カツの目が思いの外、暗い。飄々と言いながら、彼だって傷つかない訳ではない。だが、その視線が先を促すので、サトウは再び口を開いた。
 
  「早く死ぬと」
  「ふん。するってぇと、あいつはよっぽどのバカだったってことかい」
 
   ふいとカツは横を向き、庭に視線を投げた。その横顔にサトウは問う。
 
  「何故…こんなことをしたのです?」
  「唄のことかい?ほんの出来心さ」
  「カツ」
  「そこに桜の木があるだろう」
 
   カツが言うので、サトウも視線を庭に向けた。闇に白く浮かぶサクラの木が、雨に濡れてほっそりとした枝を揺らしている。
 
   イングランド人のバラに対するそれと同じくらい、サクラに対する日本人の思い入れは常軌を逸している。カツの庭に咲くヨシノザクラという品種のサクラは、正しくそんな狂気の結実であった。それは食べることのできない実をつけ、その実は芽吹くことのない種を宿す。絢爛豪華な花を咲かすためだけに生まれた、美しき畸形なのだ。
 
   銀の雨にその木ははらはらと花びらを散らす。絢爛豪華な花は雨の中に佇む着飾った女のようで、圧し掛かるように重い。
 
  「俺は散った花びら拾って、また木に戻そうとしたのさ。二百五十年間、咲き続けた桜の木の」
  「…バクフを守ろうと…したということですか?」
  「いんや」
 
   放るようにカツは言った。
 
  「散り始めたもんを元通りにするのは無理さ。ただ俺は、うまいこと散らしたかったんだ。土佐の邪魔をすれば、薩長も出足が鈍ってちょっと時を稼げるかも知れねぇと思ったのさ」
 
   結果としては寧ろ余計なことをしたのかも知れないと、カツは笑った。
 
  「それをやったときは、土佐がどう出るのかまだ分からなくてね。土佐が大政奉還の建白なんぞしてくるとは思わなかったからな…ありゃ龍馬の差し金だろうねぇ」
 
   じぃっとサトウはカツの横顔を眺めていたが、やがて忌々しそうに口を開いた。
 
  「…じゃ…あれも、そういう理由ですね」
  「ん?」
  「薩摩が…我々とフランスの仲の悪さを利用していると言ったでしょう?あれは私に薩摩に対する不信感を抱かせるために、わざとそう言ったんですね?」
 
   そして、あわよくば薩摩とイギリスの離間を狙ったのだろうとサトウは考えた。自分が時折、パークス長官の意向を無視して動いていることも見通した上で。
 
   カツはちらっとサトウを見て、にいっと笑った。
 
  「勿論、そうさ。だけど、嘘は言ってねぇ」
  「分かってますよ。分かってますけど…ちょっとムッとしただけです」
  「だけどさ」
 
   カツはぷはっと煙を吐いて、力なく笑う。
 
  「色々なことはしてみたけど、結局はこの様だよ。幕府は朝敵。上様は敵前逃亡。ひでぇもんさ」
  「それで?貴方はこれからどうするつもりなのです?」
 
   カツは再びゆっくりとサトウに向き直った。煙管を煙草盆に置き、ハオリの裾を払って座り直す。
 
  「手は二つ。一つは只管に恭順を貫いて城を明け渡す。もう一つはこの江戸を火の海にして敵さんごと壊滅させる」
 
   酷くあっさりと、カツは残忍なことを口にした。
 
  「馬鹿な…江戸を焼くなんて、この街には百万の人間が住んでいるんですよ?」
  「そうさ。だから、この二つ目の手は最後の手さ。民はみんな逃がすつもりだなんて上には言ってあるが、そんなこと出来るはずねぇ。なあ、サトウさんよぉ」
 
   射るようにカツはサトウの目を真っ直ぐに見ていた。
 
  「お前さんは新しい国ってのは、灰の中からしか生まれねえと思うかい?俺は…そんなことしなくても、いいと思ってる。桜は毎年同じ木から咲いてるが、花は別の花で、咲きブリも違うだろ?」
  「…私は…分かりません」
 
   珍しく、カツの問いにサトウは答えが出せなかった。多くの本を読み、東西の歴史を学んだからこそ、この選択が正しいのか答えが出せない。
 
  「大きな変革が起こるときには大量の血が流れるものです。ヨーロッパでも…貴方も御存じ通りシナでもそうです。そうでなければ、次の時代には進めない。前時代の者が残っていると、必ず後で齟齬をきたす」
 
   カツはすいと目を細める。そんなこと、彼だって百も承知なのだ。
 
  「ですが…私は…今、日本人同士が殺し合うことは、よいこととは思いません。貴方は覚悟が足りないと言うかもしれませんが」
 
   サトウはやや冗談めかした。
 
  「私は東西両軍に友人がいるものですから」
 
   カツはちょっと呆気にとられたような顔をしてから、盛大ににっと笑った。
 
  「そうかい。そりゃあ、俺にとっては好都合だ」
 
   唐突にカツはサトウの前に這いつくばるようにして頭を下げた。
 
  「頼む。どうか、俺に力を貸してくれねぇか」
 
   サトウはそんなカツの後頭部をやや呆れ顔で眺めていた。
 
  「…つまり、貴方が私に何かと親切にしてくれていたのは、こういうことだったんですね」
 
   カツはちらりと顔を上げて、にぃっと笑った。
 
   彼の親切を無邪気に受け取っていた自分を、サトウは苦々しく思った。例の唄の書かれた書状に師匠の変名を見つけたサイダニも、同じような心境だっただろうか。だとすれば彼もまた今のサトウと同じように、結局はこの悪びれない男を許すしかなかっただろう。
 
  「分かりました。貴方には負けましたよ」
 
   サトウはふうっと息を吐いて、それから少し苦笑した。
 
 
 
 
   その後、事態は大凡カツの筋書き通りに進んだ。
 
  江戸城の無血開城。彼の主であるヨシノブ公も命を取られることもなく、かつて先祖が治めていた地で謹慎ということになった。小規模とは呼べない戦乱があることにはあったが、戦わずして城を明け渡さなければならなかった大君側の者達の心境を考えれば、それも無理からぬことだった。
 
   まだ、旧大君派の残党が蝦夷の地で粘っていた1868年12月。唐突にイカルス号の水兵殺しが解決したという情報が入った。犯人は筑前の者で一味は九人。だが、直接殺害に直接関与した者は一人で、事件翌日には『セップク』していたという。
 
   後日、サトウはカツを訪ねてそのことを告げた。そして、犯人の男がかつてカツが所属していた長崎の海軍『デンシュウジョ』にいた者であったことを伝え、その後のカツの反応を待った。
 
   カツは吹き出すようにして、『そいつまで俺のせいにするのは、お前さんの考え過ぎさ』と笑った。