土佐の言い分
  「名とは如何に?我々が『薔薇』と呼ぶ花は、別の名で呼ばれてもその甘い香は変わらず薫る」
 
  船端に肘をついてミットフォードは太平洋の穏やかな波をじっと眺めていた。素晴らしい夜明けで、海は遠くまできらきらと輝いて見えた。滴るような緑の島々はまるで宝石のようだ。
 
  潮風が髪を嬲るのにも頓着せず、ミッドフォードは目を細める。まるで海原の遥か彼方に、古き思い出が幻となって現れたとでも言わんばかりに。
 
  「例え汝がその名を棄てても、その持前のいみじく尊い徳は残ろう。ミットフォード」
  「ウィリス」
 
  ミットフォードは海を見たまま、苛立たしげに詰った。
 
  「隣で妙な独白をするのを止めてくれないか」
 
  「シェークスピアだよ」
 
  船縁に背を預け、パイプに火を点けながらウィリスはにやりと笑った。
 
  「知っているよ。恋の為に名を捨てられなかった私への、当て擦りだろう?」
 
  ミットフォードには日本に来る前に別れた恋人がいた。正確に言えば彼女の父親によって『別れさせられた』恋人だった。彼女の父親はミットフォード家が貴族に連なる家系であることから、娘が社会的な地位の違いに苦しむことを懸念したのだった。
 
  「当て擦りだなんて…ただ、私は君を慰めようと思っただけさ。別に君の恋は終わってしまった訳ではないだろう?」
 
  黒い顎鬚の中から、ウィリスはふわっと煙を吐いた。
 
  「終わったんだよ。結局、私自身が英国の貴族制度に敬意を表したいのさ。それに…今ではオールコック長官に感謝している。お陰でこんな興味深い国へ来られたんだ」
 
  恋人の父親の名はラザフォード・オールコック。ハリー・パークス日本駐在公使の前任者である。現在は清国の駐在公使であり、娘と引き離すために部下であったミットフォードを日本へ赴任させたのだ。
 
  「一時の、私的な感情で由緒あるものを捨てるべきではない。違うかい?」
 
  ミットフォードはやや歪んだ笑みでウィリスを見た。ウィリスは自分から話題をふった癖に、困った目をしてミットフォードを見返した。
 
  「…薔薇は別の名で呼ばれても芳しく薫るでしょうが、その芳しく薫る花を称えて我々の祖先が『薔薇』という名を与えたのです」
 
  不意に歩み寄ってきたアーネスト・サトウがミットフォードの隣に立って、同じように船縁に腕をかけた。水平線を見据えたまま、年若い青年は淡々と言った。
 
  「ですから…名というのは、我々が祖先から受け継できた英国という国家を捨てられないのと同じで、そう簡単には捨てられないものだと思いますよ」
 
  生粋の英国人ではなく、スラブ系の移民にルーツをもつサトウだが、しかし、名門出のミットフォードの立場を理解していた。元々、サトウは他人の出自よりも能力を評価するタイプだし、ミットフォードも自分の身分を鼻にかけるタイプではない。だからこそ、サトウは友人の不自由な立場を客観的に理解でき、二人の友情を身分の差が遮ることもないのだ。
 
  「アーネスト」
  「それに…今は」
 
  にっとサトウは笑みを見せた。
 
  「過去よりも我々の行き先に想いを馳せるべきではないでしょうか?」
 
  促されて、ミットフォードとウィリスは同時に船の進行方向へと視線を向けた。海原の先に幻のような陸影が見えていた。
 
  「…あれが土佐か…。我々は歓迎されるのかい?」
 
  ウィリスが乗り出すようにして目を細めた。
 
  「まさか。彼らが殺人犯を引き渡すつもりながら、ハリー長官が長崎にいる間にそうしていると思いますよ」
  「つまり、彼らは容疑を認めないと考えているのかい?」
  「ええ。そうは言っても今回は幕府が間に入りますから、そう簡単には襲撃されないでしょう」
  「そう言っている割に、我らがバジリスク号は臨戦態勢じゃないか」
  「土佐は血気盛んな国ですからね。備えあれば憂いなしです」
  「薩摩との戦争のときのような不手際があっても困るしな」
  「不手際?」
  「薩摩から攻撃されたとき弾薬庫の前に荷物が積んであって、すぐに扉を開けられなかったんですよ」
  「そんな…何を置いていたんだい?」
  「十万ポンド」
 
   ミットフォードはその意味を取りかねて、一瞬、きょとんとした。それから何か思いついたらしく、にやりと…いつものように笑った。
 
  「あれか。リチャードソン殺害(生麦事件)の賠償金」
  「そう。我々の戦利品だ。全て日本の金貨だったものだから、動かすのに二時間かかったそうだ」
 
   ミットフォードがいつも通り笑うのを確かめて、ウィリスがそっとサトウへ目配せをした。それに答えて、サトウも片目を瞑る。
 
  「薩摩と言えば…大坂を発つ前、アーネストを訪ねてきた男がいただろう?」
 
   友人たちの思惑になど気づきもせずに、ミットフォードは思い出したように言った。
 
  「…サイゴウのことですか?」
  「何をしに来たんだい?あの男」
  「ハリー長官の御機嫌伺いと言っていましたよ」
 
   言いながら、アーネストはその男の姿を思い描いた。
   背の高い男だった。天井の低い日本家屋ではさぞかし窮屈だろうと思うほどだ。英国人から見てもそう思うのに、小柄な日本人から見たら雲を突くような偉丈夫に見えることだろう。それでいて、サイゴウ ― 西郷吉之助 ― はいやにゆっくりと笑う男だった。穏やかに話し、静かに微笑む。これまで何度か会ったことがあったが、いつも泰然として声を荒げたことなど一度もなかった。
 
  「まるで、掌を返すようだな。犬の躾と同じだ」
 
   ウィリスは意地悪く笑い、煙を吐く。
 
  「どちらが強いのかが明確になれば、従順になる」
  「長官のような物言いですね、ウィリス」
 
   手にしていた双眼鏡で、アーネストは遠くの陸影を眺める。優美な弧を描く白洲の浜と素朴な港が見えた。港には二隻の船が停泊している。一隻は幕府が米国の商社から買った大君の軍艦イーグル号、もう一隻は恐らく土佐の船であろう。
 
  幕府並びに「雄藩」と呼ばれる力ある藩は、近年、諸外国から中古の軍艦や武器を買い漁っている。薩摩藩などは自国で軍艦の建造を初めており、無防備だった島国は未熟ながら海軍国家として生まれ変わろうとしている。それは当初、野蛮な夷狄からただ国を守るためだけのものであったが、その砲口は果たしてこの先何処へ向けられるのだろうか。
 
  「シニス(ギリシア神話。松の木を無理矢理曲げた後に手を離し、跳ね返った木をぶつけるなどして旅人を殺していた)の松のように、無理に押さえつけられたものは更に強い力をもって跳ね返ってくるものなのではないでしょうか」
  「アーネストはいつかこの国が我々と争うと?」
  「さあて。いずれにしてもそれはずっと先のことでしょうけどね」
 
   サイゴウは無口で穏やかで親しみのある人物だった。しかし、その黒ダイヤのような目は炯々と光り、彼が決して犬になり得ないことを伝えていた。
 
  「とにかく今は、長官があまり汚い言葉を使わずに交渉してくれるよう願うだけですよ」
 
   そう言って、アーネストは再び双眼鏡を覗きこんだ。初めて見る土佐の軍艦は大君の軍艦よりもやや小さく、黒い船体に黄色い線が入っていた。
 
   近づくに連れて、船上に人影が見えた。双眼鏡を向けると、相手もこちらに双眼鏡を向けていることが分かった。ぽかんと口を開けてこちらの船を見上げる男は、サムライと呼ぶには小汚い。頭の上をそり上げることもせず、かと言って学者たちのように油で撫でつけている訳でもない。まるで今起きたばかりのようなぐしゃぐしゃの髪は几帳面な日本人には珍しいことだ。背は高く、鍛えられた体躯をしていたが水夫ではない。腰に差した二本の日本刀は、彼がサムライ階級に属していることを示している。
 
   双眼鏡越しに目が合った。すると、男は双眼鏡から目を離した。
 
   男は笑ったようだった。さも可笑しげに。そして、男は身を翻し、船室に姿を消した。
 
 
 
 
   サトウの願いも空しく、土佐におけるハリー長官の癇癪はまったく酷いものだった。まずは幕府側の代表として事前に土佐との交渉を進めていた役人に対し「まるで子どもの使いだ」と怒鳴りつけ、土佐側の代表ゴトウ ― 後藤象二郎 ― も机を叩きつけながら散々に責めたてた。
 
   後日、土佐の軍艦シューエイリーン号を訪ねると、ゴトウは憤懣やる方ない様子であった。
 
  「ミニストル(=長官)はあまりに無礼じゃ」
 
  ゴトウは三十そこそこという話であったが、高い地位についていた。肩幅の広い、まさしく軍人といった容姿で、意志の強そうな眉をしていた。
 
  「わしは我慢したけんど、他の者だったら刀を抜いちょったでしょうな。あれではうちの若いもんらに騒ぎを起こすなって言う方が無理じゃ」
 
   これまでハリー長官の癇癪にやられた日本人は何十人もいたが、こうもあからさまに長官の欠点を指摘した者はなかった。サトウとミットフォードは思わず顔を見合わせた。
 
  「それなら、是非、直接長官に指摘していただきたい」
 
   ミットフォードは面白い悪戯を見つけた子どものように笑った。
 
  「とても私たちからそれを長官には申し上げられませんからね」
  「そうですとも。我々はそれをほのめかす勇気すらもちあわせていませんよ」
 
   ゴトウは眉を寄せて、胡散臭そうに二人の英国人を見た。
 
  「そうですか。そんならわしから後ほど一言申し上げましょう」
 
   いやにあっさりと言って、ゴトウは立ち上がった。サトウとミットフォードは再び顔を見合わせた。
 
  「本当に言うと思うかい?」
  「どうでしょう。ただ、言って貰えれば我々も助かりますが」
  「いや…日本人などに苦言を呈されては火に油を注ぎかねないよ。しかもそれを通訳するのは君じゃないか」
 
   ゴトウはドアの前に立って、二人の英国人を振り返った。二人はさっと口元を引き締めた。
 
   今日はイカラス号水夫殺害の容疑者たちへの取調べの日だった。長官曰く、彼らの船は事件の翌朝、まるで逃げるように長崎を出発したというのだ。
 
   その日、長崎から逃げ出した船は二隻あり、両方とも土佐の船だった。一隻は帆船、ヨコブエ。こちらは午前3時に突如出立した。そして午前4時半にもう一隻、汽船ナンカイが出航。長官の考えでは犯人たちは最初帆船に乗って出航し、途中で追いついてきた汽船に乗り換えて逃亡したというのだ。
 
   ゴトウがドアを開けると二人の男が入ってきた。よく日に焼け、水夫のように逞しかったが、やはり二本の刀を腰に差していた。
 
  「2人だ」
 
   ぼそりとミットフォードがサトウへ呟いた。犯人は1人と予言していたサトウは、黙ったまま、すいと目を細めた。
 
   ゴトウに促されて、2人はサトウたちの向かいに並んだ。
 
  「ナンカイのキャプテン野山と寺田です」
 
   ゴトウが紹介すると二人は軽く頭を下げた。サトウはちょっと首を傾げた。
 
  「来ているのはこの2人だけですか?」
  「どういう意味です?」
  「この港へ入港したとき、この船の甲板に一人の男が立っているのを見ました。背の高い男で、双眼鏡でこっちを見て笑っていました。その男は彼らの仲間ではないのですか?」
 
   あからさまにゴトウは顔を顰めた。居並ぶ二人の男たちも動揺を見せたが、何も言うことはなかった。
 
  「あん者は…こん事件には直接は関わりない者です。あれは事件が起きたとき、長崎にはおりませんでした」
  「そうですか。…では、始めましょうか」
 
   汽船ナンカイの二人の主張は、ハリー長官の見解と真っ向から対立した。彼らは事件翌日の午後10時までは出航しなかったというのだ。
 
  「我々はそんな早朝から船を出したりはしておりません。長崎を出航したすぐ後にも取調べを受けていますが、そのときも何の証拠も出なかったはずです」
  「貴方がたが取調べを受けたのは8月19日…こちらの暦では7月20日と聞いています。事件が起きたのが7月6日ですから、すぐに取調べを受けたとは言い難いのでは?」
 
   サトウは静かに、しかし刺すような鋭さで言った。
 
  「やっちょらんものはやっちょらん!」
 
   一人が激高して、立ち上がった。ミットフォードが椅子から腰を浮かせて、内ポケットへ手を滑らした。男が刀を抜いたら、同時に額へ銃口を突き付ける算段なのだろう。
 
  「よせい」
 
   ゴトウが男を止めた。男は暫く鎖を引かれた猛犬のように唸っていたが、わざと大仰に音をたてて座り直した。それを確かめ、ミットフォードも座り直す。
 
  「申し上げにくいことですが、ミニストルの見解はあんまりにも強引じゃ」
 
   男を抑えたゴトウだが、その当人が苛立ちを抑えきれずにいた。
 
  「血気盛んな者が多いよって、長崎で土佐者がやったち噂が流れたんじゃ。それをミニストルは真に受けておられる」
  「長官が噂話に踊らされていると?」
  「そういうことになるかのう。残念じゃが」
 
   沈黙が落ちた。サトウはじっと居並ぶ土佐者たちを眺めていた。彼らは強気だ。それは本当に無実だからのようにも、こちらが確たる証拠を持たないと知って開き直っているようにも思える。どちらにせよ、サトウは長官が寄越した資料以上の情報をもっていない。
 
  「やはり長崎に行くしかないようですね」
 
   テーブルの上に広げた書類をまとめながら、サトウはふうと溜息を吐いた。
 
  「ここでは埒があきません。情報が少なすぎる」
 
   サトウが立ち上がったので、ミットフォードは慌てて、英語で問うた。
 
  「アーネスト、いいのかい?」
 
   答えるサトウはゴトウにも分かるよう、日本語で答えた。
 
  「仕方がないでしょう。我々のもっている情報と彼らの主張は全くの平行線の上、ここでは情報の真偽を確かめようがないのですから」
  「それは…分かっているさ。けれど、長官にはどう伝えるつもりだい?」
 
   ちらっと嫌に冷めた目をしてサトウがミットフォードを見た。ミットフォードは黙って肩を竦めた。サトウはその剽軽な姿にちょっと表情を緩めた。
 
  「それは勿論、事実をそのままに」
 
 
 
 
   机を弾く指のリズムが次第に速く、強くなっている。サトウの傍らに立つミットフォードはどぎまぎしながらその指先を見ていた。
 
   日本に来て初めて地震というものを体験したが、その揺れは最初、飾り棚に置かれた食器がカタコトと音をたてるだけの小さなものから始まる。それが次第に大きくなり、立っていられなくなるほどになることもあるらしい。長官が机を弾くのはその『初期微動』に似ていて、この後に訪れる激震の前触れであった。
 
   無論、ミットフォードよりも長くこの癇癪持ちの長官に仕えているサトウがそのことを知らぬはずもない。しかし、この年若い青年は悠然として、長官の怒りを恐れている様子は微塵もなかった。
 
  サトウは、恐怖という感覚を何処かへ置き忘れてきたようなところがあるとミットフォードは思っていた。時にプライドが、時に好奇心が容易に恐怖を凌駕する。軍人でもないのに拳銃片手に戦場をうろうろしたり、碌な供もつけずローニンたちが待ち伏せる街に繰り出したりするのだ。尤も、ウィリス辺りに言わせれば、その無鉄砲ぶりはサトウと行動を共にするミットフォードも同じということになるだろう。
 
  「…ゴトウもナンカイの士官たちも頑として土佐の者が犯人だとは認めませんでした」
 
   それはお前の交渉が下手だからだと言いたげに、長官の薄青の目がぎろりとサトウを見た。普通の人間なら例え自分に落ち度がなくとも、何か失敗したのではないかと不安になる。特にサトウのように若ければ尚更だ。しかし、サトウは自分の仕事ぶりには絶対の自信をもっており、長官の冷やかな視線を同じ冷やかさで受け止めた。
 
  「我々のもっている証拠は弱く、これ以上土佐で取調べをしたところが徒労に終わるでしょう。私は長崎で再調査するべきだと考えます」
 
   サトウが口を噤むと室内には長官が机を弾く音だけが響いた。ミットフォードは耳を塞ぎたいのを堪えながら、じっとその時を待っていた。
 
  「ならば、そうするがいい」
 
   ミットフォードは拍子抜けをして長官の顔を見た。その台詞は不快感こそ滲んでいたが、怒鳴り声には程遠いものだった。
 
  「サトウ、ミットフォード。二人で長崎へ現地調査に向かえ。土佐からも誰かに同行してもらうといいだろう」
  「えっ…我々、2人だけですか?」
 
   思わず声を上げたミットフォードに、長官は意地悪い笑みを向ける。
 
  「何だ、心細いのか?」
  「いいえ。全く」
 
   思わずムキになってミットフォードは答えた。この長官と離れサトウと2人で仕事ができるのだ。それも退屈な事務仕事ではなく、ちょっと冒険心を擽る仕事である。心細いどころか、楽しみなくらいだった。
 
  「私は別件で江戸へ行く。精々、あの街を駆けずり回り証拠を集めることだ」
 
 
   長官はそう言うと不敵に笑った。日本でほぼ初めて自分の主張が通らなかったというのに長官が笑っている。日本人にコケにされることを何より嫌う長官が、である。さすがのサトウも気味が悪そうに、その笑みを眺めていた。