『神崎』と『女神』という神の名をもつ二つの岬の間を抜けると、船は深く山に抱かれた湾へと入る。そこでは、空が狭く、自分が巨大な杯の底にいるような感覚を憶える。日本特有の緑豊かな、しかし単調な風景の中、その街は山の斜面を這い上がるように広がっていた。
長崎。この街は日本の他のどの都市とも違っている。西洋式に整備された港。そこに建ち並ぶ白亜の洋館の商社や煉瓦の倉庫群。石畳の道と、海からやや離れた場所に垣間見える各国の旗を掲げた領事館。そのシンガポールや香港といった港町を切り取って貼り付けたような風景は、同じ条約港である横浜や神戸にも似ているかもしれない。しかし、それらのかなり近くまで波のような日本家屋の瓦屋根が迫り、山の木々の隙間から寺院の黒い塔が幾つも見える風景はこの街独特のものだ。およそ三百年間。この国で唯一開かれた港であったこの街は、文化の混在に実に寛容で無造作ですらある。それは街並みだけではなく人々の態度にも表れていて、この街で西欧人がぶらぶら歩いて奇異の視線を投げられることも、ましてや物珍しげにぞろぞろとついてこられることなども決してない。
「Mr.サトウ」
この国の全ての街が、こんなつまらない景色に変わってしまうのだろうか。港の煉瓦倉庫の前に立ったサトウはふと、そんなことを考えていた。日本の西洋化が進めばそれは便利に違いない。しかし、この国らしい簡素で優美な風景は失われていくのだろう。
「荷物をお預かりいたします」
サトウが振り返ると、一人のサムライが慎ましく立っていた。後れ毛の一本も見えないほどに髪をぴっちりと結い上げ、身なりもきちんとした男だ。サトウは黙って、手にしていた小さなトランクを差し出した。サムライはそれを丁寧に両手で受け取る。
「領事館にお運びしてよろしかったでしょうか」
「ああ。頼むよ」
サトウの返答を確認すると、サムライは深々と頭を下げた。
「あれは何もんですかの?」
ボーイのように荷物を運んでいくサムライを何気なく眺めていると、背後から声をかけられた。振り返るとゴトウが腕を組んで立っていた。
「ノグチのことですか?あれは私の従者です」
ゴトウの顔には明らかな不満が広がっていた。折り目正しいサムライが異人に使われているのが気に入らないように見えたが、それとは別に彼は一つの問いを口にした。
「あれはどこの者です?」
「確か…会津と言ったと思いますが」
すいとゴトウは目を細めた。
「サトウさん。ありゃ、幕府の間者ですよ」
ゴトウは吐き捨てるように言い切った。今度はサトウが不満を滲ませる番だった。
「彼は私に不快な想いをさせたことなど、一度もありませんよ」
「そうですかの。まあ、気を付けて使うことですな。では、わしはちょっとこっちにおる藩の者に会っていきますよって。明日また奉行所でお会いしましょう」
では、と言ってゴトウは頭を下げた。サトウが自分の発言に対し、不快感を抱いていることなど全く気にしていないか、気づいていない様子であった。
「やれやれ酷い船だった。天気が悪かったら、確実に沈んでいたね」
ゴトウがその場を立ち去るのと同時に、ミットフォードが山高帽を被り直しながら歩み寄ってきた。土佐から長崎まで二人を乗せてきた土佐のシューエイリーン号は、酷いオンボロ船だった。長崎の陸影が遠くに見えてきたときは、実にほっとしたものだった。
「何かあったのかい?」
サトウの横顔を見て、ミットフォードもまた眉を寄せた。
「いいえ。ただ、ゴトウがノグチは幕府の間者だと言うので」
サトウはノグチを深く信用していた。彼は物静かで慎重、そして忠実な従者だったのだ。
サトウの難しい顔を横目に、ミットフォードはあっさりと笑った。
「どの日本人だって同じだよ。別に彼が優秀なことには変わらないんだから、別にいいじゃないか」
「…貴方は時々、妙なところで大雑把ですね」
「君ほどは神経太くはできてないさ、アーネスト。まあ、我々が知る紳士の中で先ほどのゴトウ氏ほどの強者はいないと思うけどね」
ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、意味ありげにミットフォードはサトウを見た。その笑みに呼応するようにサトウもにやりと笑う。最初は唇を歪めるだけの笑みだったのだが、抑えきれない笑い声が互いの口から洩れ始めるともう駄目だった。くすくす笑いがやがて大笑いとなり、2人で腹を抱えて笑い始める。側を通った辮髪の清国人がぎょっとして2人を見た。
「いや…もう、一刻も横浜に戻ってこの話を公使館職員全員にして歩きたいよ」
「…ウィリスが笑死にしなかったのは正しく奇跡ですね」
話は土佐を出立する前日に遡る。ハリー長官が江戸へ戻るというので、ゴトウが面会に訪れたときのことだった。彼は水兵殺害の犯人が土佐の者であろうとなかろうと犯人逮捕に尽力すると言い、調査の結果を逐一長官に連絡すると約束した。長官もゴトウの簡潔な物言いが気に入ったらしく、怒鳴りつけたりはしなかった。
事件は別れ際に起こった。長官が握手の為に差し出した手を握り返しながら、ゴトウはにこりともせずに言い放ったのだ。
『ミニストルに一言御注進申し上げたい』
通訳を務めていたサトウは一瞬、唾を飲んだ。しかし、長官が冷たい目で先を促すのでゴトウの言葉をそのまま訳すしかなかった。
『先日のミニストルのお言葉や態度は無礼極まりないものでした。もし拙者でなければ、刀を抜いちょったでしょう』
長官は、一瞬、首筋を真っ赤に染め、黄金の縮れた髪の毛を逆立てた。サトウはちらりとゴトウを見て、彼が口を噤んでくれることを願った。サトウは自分が長官と対立するのは構わないのだが、人のとばっちりを受けるのは勘弁して欲しいと思っていたのだ。だが、ゴトウは口を噤まないどころかトドメの一言を口にした。
『あまり癇癪を起こしては、分別を逸しますよ』
長官は大きく息を吸いこんだ。対するゴトウは岩のように眉一つ動かさなかった。サトウは思わず顔を顰めたが、長官は結局怒鳴らなかった。ここで怒りを爆発させてはそれこそ思慮分別に欠けると思ったのだろう。
「まさかゴトウが本当に言うとは思わなかったよ。長官もよく我慢したね」
その後、江戸へ向けて出航するまで、長官が酷く不機嫌だったことは言うまでもない。今も同じ船上にいるウィリスが聊か気の毒だ。
「ゴトウは思ったことを腹に溜めておけないタイプのようですね。さっきのノグチの件もそうですが」
「でも、その可能性を考えていなかった訳ではないだろう?何と言っても彼は大君の親戚の藩の出なんだから」
「ええ、まあ。…ただ、思い出したことがあって」
「ああ…ヨウドウ公の言っていた件かい?」
長官が去った後、サトウとミットフォードはゴトウが仕える大名の隠居、ヨウドウ公 ― 山内容堂 ―の酒宴に招かれた。彼は既に家督を譲っており老公と呼ばれていたが、土佐藩の実質的な支配者であった。
ヨウドウ公は背が高く、早口に話す癖があった。加えて、四十を越えたばかりという話だったが、年の割には酷く老けて見えた。どうもそれは病を患っているせいのようで、その原因は明らかに大酒だった。ヨウドウ公は何より酒を愛し、自分のことを「酔った老人(酔翁)」と名乗る程だ。酒宴のときも始まる前から酔っていて、終わって客が辞去する際もまだ飲んでいた。
「今回の事件の早期解決を図るために、幕府が土佐に罪を被せようとしているってことだろう?」
だが、酔っている割に彼の言うことは的を射ていた。まずは、水兵たちを殺した犯人が土佐の者だったら、勿論、隠し立てをすることはないし必ず処刑すると約束した。その上で彼は付け加えた。
『実は大君からこの件の犯人は土佐者だという確固とした『証拠』があるという手紙が来ているのじゃが、わしにはその『証拠』というのが何のことだがさっぱり分からぬ』
美女になみなみと酒を注がせながら、ヨウドウ公は鷹揚な調子で言った。
『幕府はおぬしらとの論争を避けようと、我らに罪を被せようとしているのやも知れませぬなぁ』
「あの大君がそんなことするとも思えないけれど」
ミットフォードは眉を寄せた。その横顔にサトウが苦笑する。
「私はヨウドウ公のおっしゃることは一考の価値があると思っていますよ。貴方はヨシノブ公に点が甘すぎですよ、ミットフォード。確かに彼は貴族的で、容姿も端麗な貴方好みですけど」
「好みだなんて…私はそんなつもりはないよ」
「自分で気づいていないのが厄介なところですね。貴方は高貴な生まれの人間は、人間性も優れていると思っているのでしょう?」
ミットフォードは自分も貴族階級に属しているという親近感からか、無意識的に高貴な者を優遇するところがあった。特に大君ヨシノブ ― 徳川慶喜 ―に対しては、彼こそはこの日本の頂点に立つ者だという意識が働くのか、手放しの褒めようなのだ。ヨシノブ公は顔立ちが美しく、挙動も優美で、言動も明瞭。兎に角、聡明な人なのだとミットフォードは言う。だが、サイゴウ辺りに言わせると、大君は言うことが二転三転して定まらず、ただただ己の保身の為に策を巡らす卑劣漢ということになる。
「高貴に生まれついた人間は、幼い頃からその身分に相応しい教育を受ける。だから立ち振る舞いも上品だし、己が何をすべきかも弁えているじゃないか」
二人の友情を身分の差は遮らない。だが、時折、ミットフォードは無邪気にその差を突き付けた。ミットフォードに悪意がないのは分かっていたから、サトウはいちいち苛立ちはしなかった。しかし、何となく距離を取られたようで、物悲しく思った。
「でも、まあ」
貴族は些細なことに頓着しない。ミットフォードはサトウの感傷には気づかぬままに続ける。
「君を見ていると、そんなもの意味がないような気もするな」
「私が何だというのです?」
サトウは感傷を引きずったまま答えた。
「だって君は、誰よりも知っているじゃないか。紳士たるにはどうあればよいのか」
サトウは呆気にとられて、じっとミットフォードの端正な顔を見据えてしまった。ロンドンに戻ればプリンス・チャーミングと綽名されるこの男は、時に聡明なサトウですら思いもつかないことを言う。
「私はいつも、君の横にあることが誇らしいよ」
あんまりミットフォードが無邪気に笑うので、サトウは何と答えればいいのか分からなくなった。たださっきまで胸にあった感傷がふっと消えるのを感じた。
「…いつまでもこんなところにいても時間の無駄ですね」
サトウは山高帽をさっと深く被り直した。
「初めに現場へ行きましょう。まずはそれからです」
そう言って、サトウは早足で歩き始めた。ミットフォードはその後ろをくすくすと笑いながら追いかけていった。
「もう事件から1カ月だからね。何の証拠も残っているとは思えないけれど」
帽子で首元をぱたぱたと仰ぎながら、ミットフォードは空を仰いだ。暦の上では既に9月。しかし、まだ太陽は夏の光で無遠慮に大地を焦がしている。その地面に片膝を着いて、サトウは丹念に二人の水兵が倒れていたという店先の敷石を調べていた。西欧人の存在そのものは珍しくない街とはいえ、彼の奇妙な行動は道行く者の興味を惹く。豪奢な着物を幾重にも纏った『タユウ』やその御付きの少女である『カムロ』が冷やかに視線を投げ、フランス人と思われる男たちはにやにやと笑い合いながらその場を通り過ぎていく。ミットフォードは酷く居心地が悪かった。
「アーネスト」
「もう少し待っていてください。さっき、私の隣にいることが誇らしいと言ったでしょう」
先ほど慌てて顔を隠したときとは打って変わって、サトウは敷石から壁を指で辿りながらしれっと言った。
「…それはまあ…そうだけど」
可愛げがないと口の中で呟きながら、ミットフォードは店の壁に背を預けた。
「ミットフォード」
「ん?」
「そこをどけてください。血痕が貴方の後ろの壁にも残っています」
ミットフォードは慌てて壁から飛びのいた。見れば確かに白壁に何かが撥ねたような跡が残っていたが、それは余りに微かで色さえ定かではない。
「…これが血痕かい?泥はねじゃないか?」
「泥はねにしては位置が高すぎますよ。それに敷石にも刀傷が残っています。現場はここで間違いないようですね」
サトウは立ち上がり、膝を払った。
「随分と人通りの多い場所です。この店も茶屋ですし、向かい側も料亭。こんな場所に英国人が二人も酔い潰れていたら、それは目を惹くと思いますけどね」
「でも、事件が起きたのは午前二時頃だ。今の時間帯とは違うだろう?」
「そうですね。ですが、ここは『色街』ですよ。真夜中だってそれなりに人通りはあることは、貴方もよく知っているでしょう」
丸山遊郭。江戸の吉原、京の島原に並んで、日本で三本の指に入る歓楽街だ。夜になれば紅のランタンがずらっと灯り、浮かれた男たちが続々と繰り出す。三味線。唄。それに合わせて手を打つ音。笑い声。その賑わいは真夜中も続き、夜明け近くになって漸く静まるのだ。
「資料によれば、最初この茶屋…引田屋の従業員が彼らの様子を見ていたそうです。ですが、男がちょっと目を離した隙に彼らは死んでいた。その直前、この道を酔ったサムライの一団が通りかかっていたということです」
言いながら、サトウは通りを眺めた。今、石畳の道は日の光を浴びて眩しく光っている。
「彼らのうち一人は刀を抜いて歩いていた。銀色に光る抜き身を見ている者がいます。加えて、彼らは皆、白いキモノを着ていた。何でも白いキモノというのは土佐の、しかも決まった連中が好んで着るものらしいですね」
「しかし、あの二人が殺された瞬間を見た人間は誰もいない」
「そう。それが面倒なところなのです」
誰もが口を揃えて、二人が殺される瞬間は見ていないと言う。彼らを街まで案内した客引き、引田屋の主人、事件を通報した下女。その誰もが。
「しかし、日本人たちは自分が面倒に巻き込まれるのを恐れて本当のことを言いません。我々が日本人の役人たちと同じ方法が使えれば、それもまた違うのでしょうけど」
「おい」
ミットフォードは顔を顰めた。
日本人の役人たちが使う方法とは、拷問による自白の強要である。この国では拷問も捜査の一環に過ぎない。だが、この件を解決するために日本人たちはその方法を使おうとはしなかった。日本のような封建社会ではスパイ網が発達し、市民たちは互いに密告し合うものだ。幕府さえ本気になれば犯人を捕らえることなど雑作もないことで、こうも事態がはっきりしないのは幕府の怠慢なのだとサトウは考えていた。
「冗談ですよ」
サトウは薄らと冷酷さを滲ませて笑った。
「まあ、我らがスコットランド・ヤードだって、どれほど公正に捜査しているのか分かりませんけど」
「少なくとも権利の宣誓はしているだろう?」
「勿論、令状も持っていくでしょうね。しかし、奇妙だと思いませんか?」
「犯罪者の権利を守ることが、かい?」
「違いますよ。例えどんな罪を犯した人間であっても、法の下に裁かれるべきだと私は考えていますよ。奇妙だというのは…ハリー長官のことです」
唐突に登場したその名に、ミットフォードは首を傾げた。
「何がだい?」
「例のサムライの一団が白いキモノを着ていたという点。それとその翌朝に土佐の船が出港したという点。尤も、この点についてナンカイの船長は否定しました。この二点しか証拠と言えそうなことはないのに、どうしてあんなに自信をもって犯人は土佐だと言い切ったのでしょう?」
「う…ん。確かにちょっと早計かな?」
「貴方も御存じの通り長官はちょっと困った癖をおもちですが、愚か者ではありません。この資料以外に何か確信できるような根拠をおもちだったと思うのですが」
「…そう思ったなら、長官がいるうちに訊いてみればよかったのに…」
「尋ねる隙がなかったのですよ。まあ、何れ分かると思いますが…」
不意に、2人の頭上で何かが日の光を遮った。見上げるとひらり、舞い落ちる影があった。
「…扇…」
ふわっとそれは優美に着陸した。桜の花びら色に似た淡い薄紅に、金と銀の粉を葺いた扇だった。サトウとミットフォードは同時に顔を上げ、それが落ちてきた先を探した。
「Mr.サトウ!」
底抜けに明るく、サトウを呼ぶ声がした。見れば向かいの料亭の二階から、乗り出すようにして手を振る姿が見える。そして、窓枠に寄りかかってこちらを見る男がもう一人。サトウは眩しい光に目を細めながら、相手を確かめた。
「…シュンスケ?」
「Yes,yes!こんなところで何をしているんです!?」
シュンスケ ― 伊藤俊輔 ―は子どものように叫びながら、再び大きく手を振った。