長州の英傑
  シュンスケの招きに応じて料亭の二階に上がると、シュンスケともう一人の男が二人を出迎えた。
 
  「すみませんね、美女の扇じゃなくて」
 
   そう言って、男はサトウが手にしていた扇に手を伸べた。
 
  「ブンタ、貴方のものでしたか。女性の持ちものに見えましたが」
 
   受け取った扇を帯に挟めた男は、にいっと屈託なく笑った。
 
  「野郎の扇など落ちてきたって、僕なら見向きもしませんからね」
 
  二人のサムライはどちらもキモノを着ていたが、髪は西洋人のように短く刈っていた。ミットフォードはブンタと呼ばれた男の顔に大きな傷跡があることに気づいた。よく見れば顔だけではない。袖口から見える腕にも首筋にも傷跡がある。ミットフォードが不審に思っているのに気付いたのだろう。サトウが間を取り持った。
 
  「紹介しますよ、ミットフォード。長州のイトウ・シュンスケとシジ・ブンタ ― 志道聞多 ―です。ブンタは少し前に刺客に襲われて、もう少しで命を落とすところだったんですよ。体中傷だらけで、それをタタミを縫う針でがしがし縫われたそうです」
 
   思わず顔を顰めたミットフォードに、ブンタが慣れた様子で右手を差し出した。
 
  「初めまして、Mr.ミットフォード」
 
   ブンタは流暢な英語で述べた。握手を交わす際も他の日本人と違ってぎこちないところはなかった。
 
  「英語がお解りに?」
  「はい。僕らは英吉利へ留学していたんです」
 
   続いてシュンスケも手を差し出た。
 
  「イトウ・シュンスケです。Mr.サトウには我が藩が四カ国艦隊と戦になってしまったときに、大変お世話になりました」
 
   下関を通過する米国商船への砲撃をしたことに端を発した下関戦争は、最終的に長州藩の砲台がイギリス・オランダ・フランス・アメリカの四カ国連合艦隊によって壊滅させられたことにより終了した。惨敗した長州藩は講和に応じ、四カ国連合艦隊の総司令官キューパーと談判を行った。その際、キューパーの通訳を務めたのがサトウであり、長州側の通訳がシュンスケとブンタだったのだ。
 
  「英語が分かる人がいて、こちらこそ助かりましたよ。あの頃は私もまだ完全に日本語を理解していたとは言えませんでしたから。あの時、そちらの代表を務められたシシド殿はお元気ですか?」
  「あ…いや」
 
   シュンスケは一瞬、曖昧に笑って口ごもった。
 
  「この四月…そちらの暦だと五月だったか…に死にました」
 
   サトウは眉を寄せた。
 
  「それは…お気の毒です。まだお若かったと思いますが…」
  「ええ。労咳だったんです」
  「…そうですか」
 
   この快活な青年にしては珍しく、シュンスケは沈んだ表情を見せた。それを見て、サトウも神妙な顔つきをしていたが、ふと場の空気を切り替えることに決めたらしい。
 
  「そうそう。ミットフォード」
 
   サトウは唐突にミットフォードを振り返った。
 
  「貴方が日本に来るよりも前のことですが、我が国の公使館が放火されて全焼したのは御存じでしょう?」
 
   急な話にミットフォードはきょとんとしてサトウを見返した。
 
  「それは勿論。江戸の御殿山に建設中だった公使館の話だろう?」
  「そう。私は風光明媚なあの場所で暮らすのを心待ちにしていたんですけどね。このお二人はその楽しみを奪った、張本人なんですよ」
 
   ミットフォードはぎょっとして二人の若い日本人を見た。二人はサトウが面白い冗談を言ったかのように、ちらっと目配せをしてにやにやと笑っていた。
 
  「Mr.サトウ。その話はよしてくださいよ」
 
   シュンスケはちょっと片目を瞑った。それを受けたサトウも笑みを返す。
 
  「いつもこうやって、誤魔化すんです。その代わりやっていないとも言わないのですが」
  「…アーネスト、ちょっと…」
 
   ミットフォードはサトウの袖を引き、片足を踏み入れていた部屋から再び廊下に出た。
 
  「あの二人が…公使館に放火したって、それは確かな話なのかい?」
  「ええ。まあ、二人だけという訳ではないようですが、確かな筋から聞きましたので」
 
   サトウはミットフォードを不思議そうに見返していた。友が険しい顔をしている理由がよく分からないといった表情だった。対するミットフォードは益々眉を寄せ、声を潜めた。
 
  「この話を長官は知っているのか?」
 
   ミットフォードの問いにサトウは目をすいと細めた。ミットフォードが何を懸念しているのか、漸く合点したのだ。
 
  「さあ。公使館に放火されたこと自体、長官が日本にいらっしゃる前のお話ですからね」
  「我々がこの国に来ているのは、我が国の利益の為ではないのかい?」
  「ええ。勿論です」
  「なら、どうして君は彼らの罪を見逃すんだ。我々が受けた損害は彼らに償わせるべきじゃないか」
 
   ちょっと首を傾げてサトウはミットフォードを見返した。
 
  「当然、そんなつまらない損害を償わせるよりも、大きな利益を得るためです」
 
   公使と言えば言うまでもなく、それぞれの国家を代表している者である。例え本国での地位はそれほど高くなくとも、赴任先においては公使への侮辱はその国の元首への侮辱と同意義だ。その公使館を焼き討ちするという暴挙を、サトウは『つまらない』と切り捨てた。
 
  「いいですか、ミットフォード。大君の政府である幕府は、西国の一大名に過ぎない長州藩と戦をして敗北しました。幕府には最早、この国を統治する力はないのですよ」
 
   知らない人間を見るように、ミットフォードは友の顔を見た。サトウの言葉通り、幕府の統治能力は風前の灯である。だからと言って幕府は未だ政権を担っているのだから、一介の通訳官がこれを軽んじてよいはずはないのだ。
 
  「君は…長州を幕府と挿げ替えるつもりかい?」
 
   もし、サトウがそれを企てていたとしても、そんなこと出来るはずもない。そういう意味を込めて、ミットフォードは慎重に言った。
 
  「貴方だって西国の諸藩がいろいろと企てているのは知っているでしょう?」
 
   だが、サトウはミットフォードの言葉をちょっと嘲るように笑った。
 
  「最終的にこの国がミカドに統治されようと、幕府が存続しようと、連邦国家になろうと我々にはどうでもいいことです。しかし、この国が生まれ変わったとき、我々はこの国が交際する国の中で最も名誉ある地位につく必要があります。その為の種を撒いておくことは重要だと思いませんか?」
 
   この友人は優秀過ぎて、自分がまだ24歳の通訳官に過ぎないということを忘れてしまうのだろうか。ミットフォードは呆れると同時に、何か恐ろしいような思いがした。サトウの傲慢なほどの自信は、いつか彼を窮地に陥れるような気がした。
 
  「それは長官がすることだろう?君は通訳官の権限を逸脱している」
  「長官の仕事がスムースに進むように、私が独自の人脈をもっていることは悪くないと思いますよ」
 
   対するサトウは明らかにムッとしていた。いつもは一緒に無鉄砲をやっている友人が、急に年上らしく常識ぶるのが癪に障ったのだ。
 
  「俊輔、聞多。そこの二人の異人さんたちは何を話しているんだい?」
 
   不意にのんびりとした声が部屋の奥から聞こえてきた。
 
  「いつまでも部屋の入り口なんぞに立っていないで、奥に来るようにお言いよ」
  「木戸先生」
 
   ブンタが少し慌てて、部屋の奥に戻って行った。シュンスケはサトウとミットフォードの後ろに回って、二人の背を押す。
 
  「喧嘩は後にしてください。今、長州の大事な方をご紹介しますから」
 
   流暢な英語でシュンスケに促されて、二人はちょっと自分の油断を悔いた。英語で話していれば日本人には話の内容は分かるまいと考える癖がついていたのだ。しかし、話をすっかり聞いたはずのシュンスケはただ愛想笑いを浮かべているだけだった。
 
   部屋の奥、掛け軸の前に一人の男が座っていた。年の頃は三十半ばくらいだろうか。糊のきいたハオリ・ハカマは上品な鴬色。視線をゆっくりとこちらへ向け微笑む様子なども、シュンスケたちとは雰囲気からして違っていた。
 
  「木戸準一郎先生です。先生。こちらが先年四カ国連合軍との談判のときいらしていたMr.サトウ。こちらが、御同僚のMr.ミットフォードです」
 
   キドと呼ばれた男は薄らと微笑んだ。目鼻立ちのすっきりとした美形で、笑みも柔らかい。サトウは何となしに、ミットフォードが好きそうな種類の人間だなと考えた。
 
  「お初にお目にかかります。長州の木戸準一郎と申します。お噂はこの二人から、かねがね聞いております」
 
   キドは深々と頭を下げた。慌てて英国人二人も床に座り、同じように頭を下げる。
 
  「まずはお近づきの印に、一献いかがです?」
 
   まだ真昼だというのにキドの目の前には酒と食事の用意があった。日本の他の地域では一人一人の前に膳が用意されるところだが、この長崎では勝手が違っている。部屋には円卓が置かれており、その上に大皿に盛られた料理がところ狭しと並ぶ。客は皆で円卓を囲み、大皿から料理を取って食すのだ。料理の内容もやはり違っていて、他の地域では忌避される豚の肉や珍しいパンを使ったものもある。この街の街並みと同じく西洋と東洋の文化が無造作に融合した結果であったが、淡泊な日本料理に飽きた西洋人にとっては嬉しい内容でもあった。
 
  「戴きましょう」
 
   サトウは円卓の上に伏せて置かれたままになっていた杯を一つ取った。杯は緋色の硝子で出来ていて、星のような文様が彫り込まれていた。まるでボヘミアングラスのような精巧さであったが、サトウはこの手の美しい杯が薩摩で作られていることを知っていた。
 
   キドはちょっと目を細めると、丁寧にサトウの杯へ酒を注いだ。続いてミットフォードの杯も酒で満たし、最後に己の杯にも注ぐ。三人揃って杯を傾けた後、キドがふと口を開いた。
 
  「僕はミスター・サトウに会ったら、是非聞きたいことがあったんですよ」
  「何です?」
 
   空になったキドの杯に酒を注ぎ足してやりながら、サトウが問う。
 
  「貴方はどこかで日本人の血を引いていらっしゃるんですか?」
  「木戸先生」
 
   店の者に人数が増えたことを伝えてきたのだろう。新しく二つの杯を手に戻ってきたシュンスケが呆れて言った。
 
  「前に申し上げたでしょう。Mr.サトウのサトウは日本の佐藤とは関係がないって」
  「それは俊輔。君の話だろう?いいじゃないか、本人に聞いてみたって」
  「確かに残念ながら私の姓は、同じ発音をする日本の氏とは何の関わりもないようです」
 
   その問いは日本で何度も尋ねられた問いだったが、サトウは嫌な顔もせずに答えた。
 
  「ですが、お陰で名前を早く覚えていただけるので重宝しますよ。こちらのミットフォードなど、ちっとも覚えてもらえませんから」
  「そうでしょう。異国の名を憶えるのは難しいものです」
 
   嫌にしみじみとキドは言った。きっとまだミットフォードの名が覚えられずにいるに違いない。
 
  「確かに。ですから、貴方も名乗りは一つにしていただきたい」
 
   その場に緊張が走った。自分の杯に酒を注ぎかけたシュンスケも、箸を並べていたブンタも手を止める。
 
  「長州の代表者の名は聞いたことがあります。貴方の本当の名はカツラ・コゴロウではありませんか?」
 
   サトウの言葉にキドは真顔でサトウを見据えていたが、ふっと破顔した。
 
  「僕の名を御存じとは光栄の至りです。しかし、別に偽名を名乗った訳ではありませんよ。ただ、名前が変わっただけです。この国では人の名前はよく変わるものなのですよ」
  「木戸先生は、先日、殿から新たな氏をいただいたんです」
 
   取り繕った笑顔でシュンスケが口を挟む。
 
  「そうですか。それは失礼しました。実はこれまで、何度か偽名を名乗られたことがありましてね」
 
   サトウに他意はなかった。ただ、あのサイゴウに初めて会ったとき、彼は偽名を名乗っていたのだ。どうせ後から本名を明かすなら、どうして嘘を吐くのだろうか。日本人の意味のない嘘にサトウは少々辟易していた。
 
   ふっとキドは小さく吹き出すと、ふふふと笑った。隣に座ったシュンスケが、何故だか慌てた様子でキドの袖を引く。
 
  「いや…失礼。ちょっとこの前死んだ友人のことを思い出しましてね」
  「この前というと…もしかしてシシド殿のことですか?」
  「そう、彼のことです」
 
   再びキドはくすくすと笑い始める。初めはただそれを眺めていた英国人二人も、次第に眉を寄せ始めた。
 
  「キド殿?」
  「実は彼、本当は高杉というんですよ。高杉晋作」
  「木戸先生…いや、違うんですよ。御家老の宍戸殿の御養子に入る前の名前が高杉晋作という名前だったんです」
  「そうです。ほら、木戸先生だって氏も名も変わられたでしょう?それと同じです。ですよね、木戸先生」
  「勿論だとも」
 
   しどろもどろで弁解するシュンスケとブンタに対し、キドは全く涼しげだ。サトウはそんな三人を眺めながら、眉を寄せた。
 
  「タカスギ…聞き覚えが…」
  「おもしろい男でしたよ。まるで、一人で神輿を担いでいるような…一人先駆けて梯子を上り、例えその梯子を外されてもそのまま屋根で昼寝をしているような男です」
  「あの…お二人はどうして長崎に?」
 
   意味のよく分からないたとえ話を遮って、シュンスケはミットフォードの杯に酒を注ぎながら話を逸らした。ミットフォードはちらりとサトウの横顔を見遣った。初めて会う彼らに何を何処まで話してよいのか分からなかったのだ。しかし、サトウはただ手にした杯を眺めまわしていた。美しい色ガラスの杯は日本の工芸品の中でサトウが好んでいるものの一つだったが、今は明らかに聞いていないふりをするための演技だった。どうも先ほどの口論を根に持っているようだ。
 
  「ちょっとした所用ですよ」
 
   仕方なく、ミットフォードは取るに足らないといった調子で答えた。
 
  「俊輔。分かりきったことを聞いたら駄目だよ。お二人はさっき、引田屋の前にいたんだろう?あの水兵殺しの件に決まっているじゃないか」
 
   ミットフォードが咄嗟に隠したことをキドはあっさりと見破った。
 
  「では、やっぱりあの水兵殺しの検分ですか?」
  「ええ、まあ」
  「犯人は土佐者らしいですね」
 
   言いながら、キドは大皿に盛られた豚肉の煮ものに箸を伸ばした。
 
  「如何にも彼らがやりそうなことです」
  「…キド殿は何故そうお考えに?」
 
   サトウは杯を置いて、ひたとキドを見据えた。キドはもぐもぐと頬を動かした後、次の料理に再び箸を伸ばしながら言う。
 
  「こっちに滞在していた我が藩の者からここの芸者衆まで皆がそう言っておりますからね。土佐は薩摩と並んで血気盛んなお国柄。無理もないことかと思いますよ」
 
   長州にだけは『血気盛ん』などと言われたくないものである。英国公使館に火を点け、下関沖を通る異国船を砲撃し、帝の拉致を企み、二度も幕府と戦をした藩は他にはない。もし、この席にゴトウがいたなら必ずや異議を申し立てているだろう。
 
  サトウは少し首を傾げてキドを眺めていたが、やがて口を開いた。
 
  「…西国諸大名は協定を結んでいると思いましたが…それでも貴方は土佐が犯人だとおっしゃるのですか?」
  「協定?何の協定です?」
  「私は先日、西郷と会いました」
 
   そう言っても、長州の三人の表情は特に変わらなかった。シュンスケとブンタも箸を止めることなく食事を続けている。もしかしたら、サトウがサイゴウと会ったという情報を何処からか得ているのかもしれない。
 
  「薩摩は将軍を打倒することを考えているそうですね」
  「西郷がそう言いましたか?」
  「サイゴウは将軍職を廃し、議会を作ることを画策していました。私は、西国諸大名は薩摩に足並みを揃えるものと思っていましたよ」
 
   ミットフォードはサトウの横顔をじっと眺めていた。サトウの話は何もかも初めて耳にすることばかりだったのだ。サイゴウがサトウを訪ねたのはただの御機嫌伺いだと言っていたし、西国の諸大名が協定を結んでいることだって初めて聞いた。一体、この友人はこの異国の地で何をしようとしているのだろうか。
 
   キドは上品な無表情を少しも崩さず、サトウの話を聞いていた。そして、サトウが話し終えると、ゆっくりと口を開いた。
 
  「西郷殿は僕らを誤解しているのでしょう。僕らが望んでいるのは現在蟄居させられている我が殿の名誉が回復されることだけです。幕府を転覆させるなど夢にも思いませんよ」
 
   言い終えた後も、キドはやはり淡々としていた。対するサトウは不快に顔を顰め、唐突にすくっと立ち上がった。
 
  「我々を信用していただけないのは残念です」
  「サトウ?」
  「領事館へ戻りますよ、ミットフォード。互いに信頼し合っていない者同士で食事をしても楽しくはないでしょう」
  「お帰りですか。出口までお送りしましょう」
 
   キドはゆったりと立ち上がった。盛んに食べていたシュンスケとブンタは箸を置いて急いで立ち上がる。その間にサトウはさっさと帽子を被ってもう既に部屋を出ていた。
 
  「ミスター・ミッドホルド」
 
   サトウを追おうとしていたところ、微妙な発音で呼び留められた。ミットフォードはとにかく振り返った。キドは薄く微笑んで口を開いた。
 
  「シナや我が国では、古来、子どもの歌う歌には不思議な力が宿ると言われています」
 
   唐突に何を言いだすのだろうと思ったが、日本の伝承や神話には興味がある。ミットフォードは思わず足を止めた。階段を下りた先でサトウが不審そうに振り返っている。
 
  「我が国の古の歴史書『記紀(古事記・日本書紀)』にも女童の歌が謀反の企てを予見したことが書かれています。二人の水兵を殺した犯人が分からないのなら、子どもの歌う童歌でも聞いてみてはいかがでしょう。何か教えてくれるかも知れませんよ」
 
   キドがからかっているのかはたまた本気で言っているのか、ミットフォードには判断がつかなかった。兎に角、キドたちに別れを告げて、サトウを追いかける。いつの間にかサトウは店を出ていってしまっていた。
 
  「アーネスト」
 
   サトウは店の前に立っていた。その目線は向かいの店の店先…二人の水兵の殺害現場…にある。ミットフォードが店から出てきたのに気付くと、彼は帽子を被り直した。
 
  「思い出しました」
 
   不意にサトウは言った。
 
  「タカスギ・シンサク。シュンスケやブンタを率いて公使館を焼いた男が、確かそんな名前でした」
  「…長州は講和の代表にそんな男を出してきたのかい?」
  「だから、名前を明かすことができなかったのでしょう。まあ、こちらとしても身分の高い者でなければ納得しなかったでしょうから、家老の息子ということにしていたのでしょうけど」
 
   ふいっとサトウは壁から背を離して歩き始めた。ミットフォードは小走りになって彼を追う。
 
  「アーネスト」
  「しかし、長州が我々に企みを隠すとは意外でした。これでは協力を申し出ることもできない。まあ、薩摩を通せば済む話ですが…」
  「アーネスト!」
 
   ミットフォードはサトウの肩を掴んだ。さすがにサトウは足を止め、振り返る。
 
  「まさか君は…サイゴウに我が国の協力を約束したわけじゃないだろうな?」
 
   サトウはミットフォードを静かに見返していた。その焦げ茶色の目は、怜悧で裂くようだった。
 
  「…だとしたら、何か問題でも?」
  「我が国の日本に対する方針は、内政不干渉だ」
  「それが建前に過ぎないことは、貴方も知っているでしょう?トーマス・グラバーがどうやってここ長崎にあんな豪邸を建てたと思っているのです」
 
   ぐっとミットフォードは言葉に詰まった。サトウは何処か勝ち誇ったように微笑みながら、続ける。
 
  「彼は武器を売っています。まずは薩摩に。そしてそれが長州へ流れているのです。それは長官も御存じのことですが、別に長官はそれを止めません。無論、他国の手前もありますから堂々と支援する訳にもいきませんけどね」
  「でも…君は通訳官だ。君が単独で彼らと交渉する権限はない」
 
   ミットフォードは苦々しく絞り出すように言った。
 
  「職務上の身分は、通訳官よりも書記官である私の方が上だ」
 
   一瞬、サトウは顔を顰めた。だがすぐに、唇へ皮肉な笑みを浮かべた。
 
  「…貴方の方が上なのは職務上の階級だけではないでしょう、Sir.アルジャーノン・バートラム・ミットフォード。貴方がやめろと言うなら、私は従うしかありませんよ」
 
   サトウの皮肉を受けて、ミットフォードは明らかに傷ついた顔をした。だが、サトウは自分の言葉を言い訳するでも、ましてや謝罪するでもなく、くるりと背を向けて歩き出した。