土佐の悪魔
   翌日。サトウとミットフォードが長崎ブギョー所に着くと、先に来ていたゴトウがブギョーとともに玄関先まで迎えに現れた。ゴトウはじっと二人の英国人の様子を眺めた挙句、唐突に尋ねた。
 
  「どうかしましたかの?」
  「何がです?」
 
   凍てつくような調子でサトウが答えた。普通の人間ならここで何かを察して口を噤むところであるが、さすがゴトウは気にも留めない。
 
  「いや。お二人で喧嘩でもしましたかの?」
  「喧嘩なんて。子どもでもあるまいし」
  「そうですか。何となくお二人がぎすぎすしちょるような気がしましての」
 
   違っていたのなら失礼なことを言ったと、ゴトウは慇懃に謝った。だが、その謝罪に二人の英国人はどちらも答えなかった。
 
   ゴトウとブギョーは二人をテーブルと椅子が用意された部屋に案内し、二人を席に着かせるとブギョーは先に部屋を出て行った。残ったゴトウが二人の前に立つ。
 
  「では、今からヨコブエの船長を連れてきますよって。ただ、その前に知っておいていただきたいことがあります」
 
   サトウは真っ直ぐに、ミットフォードは軽く頬杖をついて、ゴトウをただ見据えた。
 
  「ヨコブエは…土佐藩の船ということになっちょりますが、乗っとる者は海援隊の者です」
  「…カイエンタイ?」
  「我が藩の浪人が作った…何ちゅうたかのう…『かんぱにぃ』とか何とか」
  「company…何をしているcompany(結社)なのですか?」
  「武器や船を商っちょるようです。連中は浪人やら商人やらの集まりでしてな。我々のいうことも聞こうとせん連中です。もしかすると無礼もあるやもしれませぬが、無学な奴らの言うことですき。大目に見ていただきたい」
  「まあ…程度にもよりますね」
 
   サトウが放り出すように言うと、ゴトウは何故か会話にそぐわない笑みを浮かべた。そしてその笑みの気配を残したまま、部屋を出て行った。
 
   廊下を歩むゴトウの足音が次第に遠ざかる。それがすっかり聞こえなくなっても、部屋に残された二人はじっと黙ったまま、目も合わせようとはしなかった。二人でゴトウが閉めていったフスマの黄金を散らした美しい絵を、ただ見つめていた。
 
  暫くそのまま息詰まるような沈黙が続いた。やがて、そろそろゴトウが戻ってくるのではないかと思われた頃、ふうとサトウが深く息を吐いた。
 
  「もう、よしましょう。ミットフォード」
 
   そう言って、サトウはミットフォードの横顔に目を向けた。だが、ミットフォードは端正な横顔をサトウに向けたまま、振り向かない。
 
  「昨日は私が言い過ぎました。あんなこと言うべきではなかったし、貴方の言う通り…」
  「ちょっと調子に乗っていた?」
 
   ミットフォードはあくまで素気ない。刹那、サトウは言葉に詰まったが、直ぐに再び口を開く。
 
  「ええ。私は…そのもう少し、自分の身分を弁えるべきでした」
 
   ミットフォードは相変わらず、サトウから目を逸らしたままだった。だが、その肩が小さく震え始めた。サトウは眉を寄せた。ミットフォードがくすくす笑っていることに気がついたのだ。
 
  「それが一晩寝ずに考えた答えかい?」
 
  呆気にとられてサトウはにやにや笑うミットフォードを見ていたが、やがて盛大に顔を顰めた。
 
  「また、私をからかいましたね」
  「からかってなんていないさ。昨日君の部屋の灯りがいつまでも消えなかったもんだから、よっぽど真剣に考えているんだろうと思ってね。それなら、私の方から謝るのは悪いだろう?」
 
   サトウは憮然としてミットフォードを睨んだ。昨夜は余計なひと言を口にした自分に苛々して、寝るに寝られなかったのだ。あの時、ミットフォードが言ったのは職務上の身分の話であり、それを出自の話に置き換えたのはサトウの方だった。何より身分に拘っているのは自分の方なのだとサトウはまざまざと認識した。
 
  サトウは急に足元に置いていた書類鞄を膝の上に置くと、中から長官から託されていた資料を出し始めた。そんなサトウへミットフォードが問う。
 
  「…怒ったかい?」
  「貴方には怒ってはいませんよ。元々、大人気なかったのは私の方ですから」
 
   サトウは投げるようにして答えた。正直、サトウは己の度量の小ささに苛立っていたのである。
 
  頬杖をついてサトウを眺めていたミットフォードが、ふと笑うのをやめた。テーブルの上で両手を組み、静かに話し出す。
 
  「私の方こそ身分の話なんてすべきではなかったよ、アーネスト」
 
   ふと、サトウは書類を整理する手を止める。
 
  「ただ…危険を顧みない君が心配なんだと…そう言えばよかった」
 
   サトウはちらりとミットフォードを見た。ミットフォードはその血筋というよりは、その人格に相応しい極上の笑みを浮かべていた。サトウは呆れたような苦いような顔をしてその笑みを見返していたが、やがてふっと頬を綻ばせた。
 
  「敵いませんね、貴方には」
  「寝ていないのは私も同じなんだ。今日は是非、さっさと終わらせたいね」
 
   あふっとミットフォードは欠伸を噛み殺した。ミットフォードはミットフォードで、自分の言葉がサトウのコンプレックスを突いてしまったことを気にしていたのだ。
 
  廊下を歩む足音が聞こえてきた。二人は同時に表情を改め、座り直した。
 
  「相手がローニンだというなら、長官風にやってみるかい?」
  「いいえ」
 
   サトウはいつもの怜悧な顔で正面を見据えた。
 
  「我々は我々のやり方で」
 
   静かにフスマが開かれた。まずはブギョーとゴトウ。続いて、いかにも浪人風の男が二人、部屋に入ってきた。
 
   そのうちの一人にサトウは見覚えがあった。土佐の港に入港したとき、土佐の軍艦の上から双眼鏡でこちらを見上げていた男だ。背が高く、髪は解れ、キモノはよれよれ。ちらりとこちらを見た細い目は、こちらを値踏みするように見えた。
 
  普通、日本人はそんな目でこちらを見ない。彼らは大抵、無闇とこちらを恐れて目を逸らすか、恨みを込めて睨みつけるかだ。中には友好を築こうと微笑んで見せる者もいるが、幾らこちらが若輩といっても、こうも明け透けに無礼な視線を投げかけたものはこれまでなかった。サトウはまるで汚れ物でも見たように顔を顰めた。
 
  「こちら海援隊隊長、才谷梅太郎。隣はヨコブエのキャプテン、菅野覚兵衛と申す」
 
   スガノと紹介された男は粗野な人間のように見えたが、それでも軽く目を伏せ、目礼をした。だが、サイダニと紹介された例の細目の男は、まだブギョーもゴトウも立ったままだというのにどかっと腰を下ろした。
 
  「才谷」
  「後藤さん、儂らはこんなことしちゅう場合じゃないがぜよ。後藤さんだってそうじゃろが」
 
   土佐の家老であるはずのゴトウはじっと一介の浪士を見据えた。だが、ただそれだけだった。
 
  「…おんしの言うとおりじゃの」
 
   ゴトウは憮然と言った。彼の本心もまた、こんなくだらない事件に巻き込まれている暇はないといったところらしい。しかし、英国公使館から派遣された二人にしてみれば、この事件こそ彼らが最優先に扱うべきものだった。母国が蔑ろにされたようで、二人の英国人は酷く不快だった。
 
  全員が席につき、不穏な雰囲気のまま取調べが始まった。
 
  ヨコブエは英国水兵が殺害された日の翌朝、港を出たと言われる二隻の船の一隻である。長官の寄越した資料上では、先日土佐で取調べを受けたナンカイよりも一時間半ほど先に出港したことになっている。ヨコブエは機関をもたない帆船、ナンカイは汽船。一時間半ほどの差ならば、ナンカイは容易に海上でヨコブエに追いつくことができる。ナンカイがヨコブエに乗っていた殺人犯を引き取って彼らを土佐へ逃がし、ヨコブエは素知らぬ顔で長崎に戻った。これが、先に長崎で調査をしたハリー長官の見解である。
 
   だが、ヨコブエの船長スガノはそれを認めなかった。
 
  「確かにわしらは朝早く出港しました。じゃが、昼には港に戻りましたんで、もし犯人が乗っちょったら一緒に戻ってきちょったでしょう」
  「では、海上でナンカイに会わなかったと言うんですね」
 
   一瞬、スガノは眉を寄せて、戸惑ったような表情になった。だが、すぐに何事かに気づいたらしく頷く。
 
  「はい。どの土佐の船にも会っちょりません」
 
   土佐で取り調べたナンカイの船長は、事件翌日の午後10時までは出港しなかったと言っていた。サトウは眉を寄せ、ちらりと長崎ブギョーを見遣る。
 
  「船の出た時刻に関する記録はないのですか?」
  「それが…本来は出港時間を報告する必要があるのですが、この度はどちらの船も報告がなく…」
 
  サトウは図らずもこんなところで、幕府権力の衰退を見たような気がした。長崎は幕府が直接管理している街であり、長崎ブギョーはその権威の実行者だ。それなのにブギョーはその港の船の出入りすら管理できていないのである。
 
  「彼らが出港した時刻を証明できるものは何もないのですか?」
  「そうですな…まあ」
  「では、何故、ハリー長官の資料にはヨコブエが午前3時、ナンカイは午前4時半に出港と書いてあるのです?これは貴方方が作った資料ではないのですか?」
  「ええ…まあ」
 
   ブギョーは頭の剃りあげた部分に汗をかきながら、しどろもどろだ。
 
  「証明するものはないのに、何故、このような資料があるのです?」
  「それは…噂がありまして」
  「噂?」
 
   土佐での取り調べの際、ゴトウが言った言葉を思い出す。ゴトウは、長官が噂に踊らされていると言ったのだ。そのゴトウは今、勝ち誇った笑みを浮かべるでもなく、淡々とブギョーの横に座っていた。
 
  「土佐の二隻の船が、夜明け前に相次いで出港したという噂で…」
  「噂なら必ず出所があるはずです。どうして、それを確かめないのです?」
 
   ブギョーは、「はあ」と曖昧に答えた後は全く沈黙してしまう。サトウは思わず、鋭く舌打ちした。
 
  「アーネスト」
 
   ミットフォードは正面を見据えたまま、小さく諌めた。
 
  「失礼。ミットフォード」
 
   サトウもまた目の前の男を眺めながら、短く答えた。
 
  彼らの言うことが事実だったとするならば、犯人が土佐の船に乗って長崎から逃げ出したという話はなくなる。だが、それは長官の描いたシナリオが間違っていたということを示すだけで、彼らが犯人ではないことを証明している訳ではない。
 
   サトウは質問の内容を変えることにした。犯人は長崎から逃げ出したのではなく、ヨコブエに乗ったままだったのかもしれない。海上で汚れたキモノやカタナを棄てて、ほとぼりが冷めるのを待っていた可能性もある。
 
  「…事件当夜、貴方は何処にいらっしゃったのです?」
  「わしは…隊の宿舎で飲んじょりました」
 
   質問の矛先が変わったので、スガノはちょっと戸惑ったように見えた。
 
  「それを証言する人はいますか?」
  「そりゃ…隊の者がおります」
  「貴方のお仲間はみんなそうおっしゃるでしょうね」
 
   サトウは皮肉に言った。
 
  「貴方は白いハカマを穿いていますね。それは貴方の隊の者はいつも身に付けているものなのですか?」
 
   スガノは一瞬視線を逸らし、己の着ている着物に目を落とした。上は柿茶色のキモノであったが、袴は薄汚れているとはいえ明らかな白色であった。
 
  「まあ…」
  「上のキモノも白いものをお持ちなのではないのですか?」
 
  不意に、喉の奥を鳴らすようなくぐもった笑い声がした。サトウはきっと声の主を睨んだ。
 
  「…何がおかしいのです?」
  「じゃって、おまん…着物の色じゃなんじゃって…のう?」
 
   サイダニはチェシャーの猫のようににやにやと笑った。目の前の遣り取りが茶番だとでも言いたげだった。その不遜な態度にミットフォードも不快を憶えたが、その隣に座るサトウの横顔は最早、切れそうなほど凍り付いていた。
 
  「貴方は…御自分が置かれた立場を理解していらっしゃいますか?」
 
   浪人風情を相手にするにしては異様なほど慇懃に、サトウは言葉を紡いだ。
 
  「貴方方の回答如何では、土佐藩がこの件の責任を負うことになるんですよ」
 
   サトウを支えるのは絶対の自信だ。無論その根拠となるのは己自身への信頼でもあるのだが、それ以上に彼の背後に控える大英帝国への信頼でもある。大英帝国がその気になれば、この国のちっぽけな港に軍艦をずらりと並べ、木と土と紙で出来た玩具のような都市を瞬く間に灰にすることだってできるのだ。
 
   サイダニは恐らく的確にサトウの脅迫を見破った。だが、少なくとも表面上は恐れる様子を見せなかった。
 
  「証拠がないきに」
 
   男は高慢に言った。
 
  「薩摩や長州のように土佐を焼くことはできん」
  「証拠は何れ揃えます」
 
   男の嘲笑を、サトウはナイフの切っ先のような冷やかさで受け止める。
 
  「犯人には罰を受けさせるつもりです。必ず、その命と引き換えに」
 
   サトウは酷薄に言った。これ以上の西欧人襲撃を防ぐためには、犯人を厳罰に処すことが必須だと考えていたのだ。古の法律のように命は命で購わなければ、また同じような事件が繰り返される。
 
   サイダニの顔から笑みが消えた。そして、次の瞬間、その顔は大きく歪む。それは不満などと生易しいものではなく、明らかな憎悪であった。
 
   例え西欧と友好的にあろうとしている日本人であっても、内心は『ジョウイ』を掲げる連中に同情している。何故なら、彼らはその心情を理解できるからだ。西欧人たちが来なければ彼らは自分らが小国の人間だとは知らなかった。誰もが己の欠点からは目を逸らしたいものである。彼らが魂と崇めるカタナは既に戦の役には立たず、その体躯は矮小で、社会の制度も未熟。蒸気機関を初めとする科学技術は完璧に立ち遅れ、医術に至っては殆ど原始的ですらある。突然、これらの現実を唐突に突き付けられた日本人が、己の姿を顧みるより先に、それを指摘した相手に激怒するのも無理からぬことだった。
 
  「命を命で購うのが、それほど不満ですか?」
 
   サイダニの憤怒を受けて尚、サトウは揺らがなかった。庭につながれた飼い犬が綱をぴんと張って吠えまくっているような、そんな光景を思い描いていた。自分はやや離れてそれを見ている悪童だ。磨かれた犬歯も土を掻く爪も見えている。だけど、それらが決して届かない場所に立って、笑っている気分だった。
 
   突然、スガノが食って掛かるように口を挟んだ。
 
  「もし土佐者が犯人だとしたら、逃げたりせん!今頃、洗いざらい喋って腹を切っちょる!」
 
   あまりに実直なもの言いにその場は鼻白んだ。肩で息をするスガノの隣で、ただサイダニだけがおかしそうに笑った。
 
  「その通りじゃ、覚兵衛。土佐に卑怯者はおらん」
 
   そう言うとサイダニは二人の英国人を見て、にやりと笑って見せた。唇は歪んでいるのだが、目だけは憎悪を含んだままの、悪魔のような笑みだった。
 
 
 
 
  「おや。すっかり仲直りしたようだね」
 
   領事館に戻ると、領事のフラワーズが迎えてくれた。今朝の朝食のテーブルでは何も言わなかったのに、ブギョー所から戻ってきた二人を見た途端そんなことを言う。
 
  「別に喧嘩なんてしていませんよ。子どもじゃありませんから」
  「そうですとも。ただ、アーネストが一人で不貞腐れていただけですよ」
 
   サトウは軽くミットフォードを睨んだが、ミットフォードはまたも素知らぬ顔だった。
 
   揃って二階のミットフォードに割り当てられた部屋に入ると、ミットフォードは早速タイを緩めて肘掛椅子に座りこんだ。サトウは窓際に立って、領事館の使用人たちがアフタヌーンティーの用意を終えるのを待っていた。
 
   英国領事館は領事館の丘と呼ばれる小高い丘に建っていて、窓からは長崎の湾が一望できた。今、その海は夕陽を受けてきらきらと黄金に光っている。港に並ぶ煉瓦の倉庫街。洋灯が光り始めた石畳の道。停泊する蒸気船。この国が西洋文明に駆逐されていく様をサトウは陰鬱な想いで眺めた。
 
   何かあれば街を焼き払うことも考慮の中に入れながらも、サトウはこの幻のように美しい国を愛していた。この国の都市がみなロンドンのようになればよいなどと少しも思わないし、ちょんまげを結った男たちの皆が皆、野蛮人だとも思わない。十八歳の頃、絵草子めいた本の中で初めてこの幸福な島国と出会ったときと同じように、サトウは未だこの国にどこか憧憬を抱いていた。だが、それは沈みゆく夕陽の最後の輝きが美しいのと同じで、滅びゆくことが決まっているが故に美しいのかもしれなかった。
 
  「君はどう思っているんだい?アーネスト」
 
   目の前のティーカップに紅茶が注がれていく様子を眺めながら、ミットフォードは尋ねた。さすが貿易港長崎の紅茶だけあって、黴の匂いなどしない上質な茶の香りが部屋に広がる。やがてお茶の準備を終えた使用人たちは静かに部屋を後にした。
 
  「あの連中が犯人だと思うのかい?」
 
   ティーカップを手にしたミットフォードの問いに、サトウはあくまで慎重に答えた。
 
  「分かりません。資料に犯人は白いキモノを着ていたと書かれていました。確かに、カイエンタイの連中は白いキモノを身に付けることが多いようですが、それも確かな証拠にはなりません。白く袖のないキモノはサムライの作業着として一般的なものです。まあ、返り血を浴びたものでも出てくれば話は別でしょうが」
 
  「事件からもう一カ月以上も経っているんだ。そんなもの取って置く奴はいないだろうね」
  「ええ。兎に角、土佐の浪人たちが非常に無礼なのは確かですがね」
 
   ふいとサトウは窓の側から離れて席に着くかと思いきや、ただミットフォードの前に聳え立っている三段のティースタンドからキュウリのサンドウィッチを一つ取り上げた。そして、それとティーカップをソーサーごと手にして、再び窓際に戻る。
 
  「…なのでまずは噂の出所を探ろうと思っています」
  「噂?」
 
   サトウが立ったままサンドウィッチを齧り始めたので、ミットフォードは眉を寄せた。
 
  「ブギョーが言っていたでしょう?土佐の船が連れ立って出港したという噂が流れていると。噂が流れる要因は二つ考えられます。一つは実際にその場を目撃した者が誰かに話し、それが噂として広まった。もう一つは…」
  「何者かが土佐を陥れようとして、嘘の噂を流している」
  「その通り」
  「もしそうだとしたら、噂の出所はブギョー自身じゃないのかい?君の言う通りなら、西国の大名が将軍を権力の座から引きずり下ろすために協定を結んでいるんだろう?その一員の土佐をあわよくば我々に叩かせようとしているんじゃないのか?」
  「それはそうですが、あのブギョーにそんな器用な真似ができるとは思えませんね」
 
   サンドウィッチを食べ終えると、サトウは窓ガラスに寄りかかりながらティーカップに唇を寄せる。
 
  「じゃあ、誰だって言うんだい?」
  「勿論、ブギョー所に気が利く人間が一人くらいはいるかもしれませんが…ところで、ミットフォード。貴方は昨日、キドに何を言われたんです?」
 
   突然の話題の飛躍に、ミットフォードはちょっとの間、付いていけなかった。
 
  「聞いていなかったのかい?」
  「ええ。ちょっと不貞腐れていたので」
 
   ミットフォードはひょいと肩を竦めた。
 
  「いや、何。きっと冗談だよ。犯人が見つからないなら子どもの歌でも聞いてみろって言われたんだ。東洋では子どもの歌が未来を予見してくれることがあるらしいよ」
 
  「清国では子どもに政府批判の歌を歌わせて世論を誘導し、政府の転覆を図る者がいるらしいですよ」
  「そうなのかい?私はもっと神秘的な話かと思ったよ」
 
   サトウは紅茶を一口飲んで、笑った。
 
  「神秘的な話には大抵つまらないカラクリがあるものですよ」
  「…もしかして、君は長州を疑っているのかい?」
  「さて。どうでしょうか。ただ、協定を結んでいるはずの土佐を全く庇おうとしなかったのだが、気になるだけです。長州が土佐を陥れて何の得があるのかは未だによく分かりませんが」
 
   夕陽を背に受けたサトウの細長い影が室内に伸びている。実に美味そうに紅茶を口にするサトウをミッドフォードは暫く見ていたが、やがて口を開いた。
 
  「夕陽が美しいのは分かるけれど、座ったらどうだい?」
  「ああ…すみません。それで貴方は少し不機嫌だったんですね」
  「別に不機嫌という訳でもないけどね。ただ、イギリス式では、紅茶というものは座って嗜むものだと思うけれど、違うかい?」
  「無論、その通りですよ。ですが…ちょっと待っているんです」
  「待つ?誰か、約束しているのかい?」
  「いいえ。でも、我々はこれから噂の元を探しに行かなければならないでしょう?それに同行してくれる者が来るはずなんですよ」
 
   ミットフォードはサトウの言葉に好奇心を刺激されたようだった。己もティーカップ片手に立ち上がり、サトウの隣に立つ。
 
  「…ほら。来ましたよ」
 
   短髪のサムライが二人、夕陽に光る石畳の坂道を連れ立って上がってくる。二人は何やら難しい顔で語らいながら、真っ直ぐに領事館を目指していた。
 
  「あれはシュンスケとブンタかい?」
  「ええ。きっと彼らは我々を楽しい場所に連れ出してくれますよ」
 
   サトウは窓枠から離れ、テーブルに空になったティーカップを戻した。
 
  「さて、出かける準備をしておきましょうか」
  「別に待たせておけばいいじゃないか。気を遣う相手じゃないだろう?」
  「いえね。ただ、準備を済ましておいて、『そろそろ来ると思っていましたよ』と、言いたくはありませんか?」
 
   悪戯っぽく笑って、サトウは部屋を出た。ミットフォードは急いで紅茶を飲み干すとサンドウィッチを一つ摘まんで、サトウの後を追いかけた。