丸山遊郭
   二人の短髪のサムライが丘の上にある英国領事館を訪ねると、イギリス公使館職員の二人は帽子まで被って悠然と居間の長椅子に腰を下ろしていた。二人して扉の前に立ち尽くす長州勢を面白そうに眺めている。
 
  「思いの外、遅かったですね」
 
   サトウは微笑んで二人を見た。
 
  「いや…寧ろ、何の断りもなく来たので…驚かれると思っていましたが」
 
   シュンスケは困惑してブンタと顔を見合わせた。その様子を見て、堪え切れなくなったミットフォードがくすくすと笑う。
 
  「種明かしをしておやりよ、アーネスト」
  「別に明かすほどのことじゃありませんよ。あのような別れ方をしたのですから、必ず何か言ってくると思って待っていただけのことです。我々を怒らせて、そのままにしておけるはずもないでしょう?」
 
   怒ったのは君だけだろうと言いかけて、ミットフォードは口を噤んだ。どうやらここでは、サトウの不快を英国の総意にしておいた方がよさそうに思えたのだ。
 
   ブンタは不愉快そうに、傷のある顔を歪めた。
 
  「…まあその…我が藩にもいろいろと事情がありまして…」
  「待ってください」
 
   サトウはあくまで愛想がいい。昨日、宴席の途中で立ち上がった彼とはまるで別人のようで、シュンスケもブンタも戸惑っているようだった。
 
  「こんなところで話すのは味気ないものです。場所を変えましょう。実は、是非、貴方方に案内していただきたい場所がありましてね」
  「別にいいですけど…何処に行くんです?僕らだってこの街の者ではありませんから詳しくは知りませんよ」
  「大丈夫ですよ。貴方方のよく知るところです」
 
   そう言いながらサトウは席を立ち、二人に歩み寄った。
 
  「昨日、お会いした丸山遊郭。お詳しいでしょう」
 
   その言葉を聞いた途端、二人の日本人は打って変わってにかっと笑った。
 
  「それは勿論」
  「喜んでご案内しましょう」
 
   いやにはしゃぐ三人を背後から見ながら、ミットフォードものんびりと立ち上がった。そして椅子に足を組んで腰かけたままの長崎領事フラワーズに、ちょっと笑いかけた。
 
  「呆れていらっしゃる」
  「まあね」
  「我々はただ学生のように楽しく過ごしているだけですよ。『よく働き、よく遊べ』です」
 
   帽子を被り直しながら、微笑むミットフォードの背後。窓の向こうで、夕陽は既に最後の光を残すだけとなり長崎の街は闇に沈みつつあった。
 
 
 
 
   丸山遊郭は真昼に訪れたときと全く違った顔を見せていた。紅く燃えるランタンが軒に沿って並び、道々をまるで昼間のように照らしている。行き交うのは華やかに着飾った娼妓、そして男たちだ。この国にいるありとあらゆる種類の男がこの街に集まっているかのようだった。顔を隠した高位のサムライ。大声で騒ぎたてるローニンたち。でっぷりと肥えて悠然と歩く清国の商人。山高帽を被りステッキを持った西洋の紳士に、日に焼けた水兵などなど。
 
   紅い格子の間から顔を真っ白に塗った女たちがさざめいているのが見え、客引きの中年女たちは誰彼かまわず店内に引き込もうと手を伸ばした。未だ西洋人の存在に慣れない大坂や横浜と違って、長崎では寧ろ西洋人は歓迎されるようだった。
 
  「ここの連中は昔から異人の相手は慣れていますからね。異人さんの方が金の払いはいいし、珍しいものもくれるしで、モテるんですよ」
 
   シュンスケはちょっと拗ねたようにそんなことを言った。
 
  「で、何処の店にします?」
  「そうですね…どうせなら一番よい店にしましょう」
  「一番良い店ですか?」
  「引田屋です」
 
   イトウは眉を寄せた。
 
  「Mr.サトウ。遊びに行くのではないのですか?」
  「遊びに行くんですよ。勿論」
  「でも引田屋は水兵殺しの現場で、下男下女ばかりか店主まで奉行所に呼ばれて事情を聴かれています。貴方方にあまりいい印象をもっていないと思いますよ」
  「昨日、店先をうろうろしていますしね。でも、この街で一番のお店はあそこでしょう?そんなつまらない理由で行かないのは勿体ないですよ。昨日はこちらから貴方方のご招待を蹴ってしまいましたからね。今日は我々が奢りますよ」
 
   イトウは反射的に頬が緩むのが隠しきれなかった。対して、ブンタは何か納得のいかないような表情を見せたが、結局は何も言わなかった。
 
  夜の闇に浮かぶ引田屋もまた真昼の姿とは全く違っていた。この遊郭一の老舗且つ最も格式が高いという評判に相応しい。思えば昨日訪れた事件現場はこの店の裏側であり、正門を見るのは初めてだったのだが、黒々とした屋根瓦を備え、やや威圧的なまるでダイミョー屋敷のような風格だった。
 
  一行が踏み入れた瞬間、花と調度と女性たちで極彩色に飾られた店内に緊張が走った。昨日の昼間、サトウが裏口前の石畳と白壁を丹念に調べていたのを見ていた者があったのだろうか。その緊張感に却ってミットフォードは仕事を思い出した。
 
  「本当に店の者達に話を聞いたりしなくていいのかい?」
  「後日、ブギョー所で店の者の事情聴取も予定されています。今聞いたところで、お役人様のいないところでは言えないと、口を噤まれるだけですよ。それより我々が聞きたいのは罪のない噂話です」
 
  そう言って、サトウはさっさと差し出された登楼名簿に名前を書いた。続いて、ミットフォードも慣れた様子で署名をする。
 
  「…薩道愛之助に密徳法ですか。貴方たちも変名を使っているじゃないですか」
 
   二人の手元を覗きながら、おかしそうにシュンスケが言った。
 
  「私たちはただ音を当てているだけですよ。貴方方こそ、ハヤシ・ウイチにタカダ・ハルタローとは…本名の原型を留めていませんね」
 
   しぃっとブンタは口の前に人差し指を立てた。
 
  「僕らはこの街を堂々とうろうろできる身分じゃありませんからね」
  「そうですとも。何せ朝敵ですから」
 
   言いながら、長州の二人はけらけら笑った。
 
   そうこうしているうちに、一行は広大な庭園の一角にある離れへと通された。離れと言ってもそこは優に一般的な茶屋一軒分に相当する建物で、『花月』と呼ばれており、その名から引田屋自体が『花月楼』とも呼ばれていた。
 
   緑繁る庭を、所々に灯された釣灯篭と案内役の提灯の灯りを頼りに歩いていく。池に架かる橋を行き交う提灯の灯りは、まるで蛍が飛び交っているかのようだ。庭があまりに広いせいか宴の嬌声は遠く、微かだ。間近で聞けば不愉快な笑い声や下手な唄も、遠くに聞くと風情がある。
 
  「美しい庭ですね」
  「昼間見てもいい庭ですよ」
 
   シュンスケの声はうきうきと弾んでいた。江戸や大坂に滞在したときには、夜な夜な宿舎を抜け出して花街で遊んだサトウとミットフォードであるが、シュンスケとブンタも二人と同じか、それ以上に『遊び』が好きらしかった。末端まで煌びやかな調度や和洋折衷の建物を物知り顔に説明していたのも最初だけ。揚屋から呼んだ芸者衆が姿を見せた頃には、すっかり出来上がっていた。
 
   話は日英どちらの女性が魅力的かというどうしようもないものから始まり(ちなみに満場一致で日本女性に軍配が上がった。しかし、ミットフォードは結婚するなら英国女性と明言。曰く、『それが義務だから』)、次はその場にいる芸子たちの品定め。今度は逆に芸子たちが一番の色男をシュンスケに定め(この評定に他三人は勿論、不服)、ブンタの傷自慢が入ったあと一頻り猥談を重ね、その後、漸く昨日の話になった。
 
  「木戸先生があんなことを言ったのは…Mr.サトウのせいですよ」
 
   目尻の辺りを赤く染めながら、シュンスケは声を落とした。紙と木で作られた日本の建物は密談には向いていない。だが、シュンスケたちと密談をするのは簡単だ。英語で話せばいいのだ。
 
  「貴方が『大君の政府』の連中と付き合っているからです」
 
   シュンスケの言い様にサトウはちょっと笑った。日本人の彼が『バクフ』という言葉ではなく『大君の政府(the government led by Taikun)』という言い回しをしたのが面白かったのだ。
 
  「仕方ないでしょう。大君は今もこの国の外交を担っているんですから」
  「そういうことじゃありませんよ。江戸にいたとき、貴方は『大君の政府』の高官たちとも随分派手に遊んだそうじゃないですか」
 
   彼にしな垂れかかる女が、言葉が分からず首を傾げてシュンスケを覗き込んだ。シュンスケは笑みを湛えて、まるでサトウの浮気癖をからかうような調子で続ける。
 
  「おまけに会津の連中とも親しいそうですね。会津はある意味、我々にとって大君以上の宿敵です。我々の同志をたくさん殺しましたからね」
 
  ブンタはブンタでさっきの傷自慢でキモノがすっかり肌蹴てしまっているのに、眼光だけは鋭く、ちらりとサトウへ探るような視線を投げた。
 
   ミットフォードは杯を片手に眉を寄せてサトウを見ていた。確かにサトウには従者のノグチを通じて会津にも幾人かの友人がいた。そういう意味では、ゴトウがノグチを間者と呼んだのもそれほど的外れではないのだ。西国の者達から見れば、バクフ派の会津とサトウを繋ごうとする者は間者に等しいに違いない。
 
  サトウが敵味方関係なく広い人脈をもっていることは、どちらの立場の日本人にも不信感を抱かせるだろう。その疑念はサトウの身を危険に晒すことにもなると思うのだが、サトウは相変わらず全く気にする様子もなかった。
 
  「我々は彼らの誘いを断る理由がありません。寧ろ断るならその訳を説明しなくてはならないでしょう」
 
   サトウは涼しい顔でシュンスケの視線をはぐらかした。
 
  「心配なさらなくても、私はうっかり秘密を漏らしたりなどしませんよ」
 
   そして、頬に浮かぶ笑みを深める。
 
  「私は貴方方の方に思い入れがあるのですよ」
 
   ミットフォードは呆れ果てて、思わずサトウの横顔をまじまじと見つめた。
 
  「アーネスト。もう一度言うけれど、我が国の方針は…」
  「ですが」
 
   ミットフォードの言葉を遮って、サトウはちょっと悪戯っぽく笑った。
 
  「こちらのミットフォードは大君殿下に大変入れ込んでいましてね。先日、謁見したときから、英邁で容姿端麗、まさしく一国家の君主に相応しい方だとべた褒めなんですよ」
 
   ミットフォードはぎょっとしてサトウを、続いて長州の二人を見た。二人の目に明らかな猜疑が浮かぶのを見て、ミットフォードはどぎまぎした。
 
  「…彼が優れた策士であることは知っていますよ。東照大権現の再来と呼ぶ人もいるくらいです」
 
   苛立った様子でブンタが言った。どうも彼らは徳川慶喜という男に相当煮え湯を飲まされているようだった。慶喜公を策士として評価している訳ではなく、紳士として称賛しているミットフォードは、微妙な表情で黙り込む。
 
  「先日、私はサイゴウに英国の支援を申し出ました」
 
   ブンタの杯に酒を注ぎながら、サトウは再びミットフォードが緊張するようなことを無雑作に言った。
 
  「ですが、彼は私の申し出を断りました。キドが私に秘密を話さないのも、我々の協力…と言うより干渉を避けるためでしょう。お二人は日本人の力だけでこの変革を行うことを選んだ。正しい選択かと思います」
 
   にこりとサトウは笑う。
 
  「貴方方が大君相手にどう戦をしようと構いません。ただ、一つ覚えていていただきたい。もし、その際に我々外国人勢に少しでも危害が及ぶようなことがあれば、貴方方は大君の軍隊と英国海軍とを敵に回すことになるでしょう」
 
   今度はシュンスケとブンタが息を飲んだ。場合によっては英国も敵に回ることがある。その可能性をサトウは彼らの上に常に掲げておきたかった。やがて新しい時代を担うかもしれない彼らが、勝ちに乗じて再び西洋諸国を軽んじないように釘を刺しておく必要がある。
 
  「そんなことは起こり得ませんよ。我々の敵はもう外国人ではありません」
 
   シュンスケがへらっと笑ったが、どこかぎこちなく見えた。幕府打倒を叫ぶ者達の多くが、同時に未だ攘夷論者でもあることをシュンスケもブンタも身をもって知っている。本当に幕府と戦になったとき、彼らが幕府によって作られた忌まわしい外国人居留区を攻撃しないよう抑えきれるか自信がもてなかったのであろう。
 
  「そうでしょうか。それなら、例の問題もすぐに解決してもよいと思うのですがね」
  「水兵殺しのことですか?」
  「ええ。もし、我々と敵対する者がいないというなら、あのような事件自体起こり得ないでしょう?ましてや、犯人を隠匿するなんてあり得ません」
 
   ちらりと長州の二人は顔を見合わせた。それから、シュンスケが急に日本語で話し出した。
 
  「そんなこと言われても、あれは土佐者の仕業だそうですからね。僕らには関係ありませんよ」
 
   今まで話の内容が分からずに困り果てていた芸子たちが互いに目配せをし、ミットフォードの隣に座っていた器量よしが紅い唇で口を挟んだ。
 
  「もしかして…こん間、店ん前で殺されとぉ異人さんのお話ね?」
  「そうそう。驚いたじゃろう?」
 
   シュンスケがにっと笑って女たちの顔を見渡したので、彼女たちは小鳥の群れのように一斉に話し出した。
 
  「怖かったぁ。真夜中過ぎに大騒ぎになって、お役人やら異人さんやらいっぱい来て」
  「三九郎さんやら、ふじさんやら、おとしゃままで連れていかれてしもうて…なんごともなく帰ってきたからよかったけれど」
  「土佐の人たちもいつもはよかお人ですけど、酔っぱらうと暴れますけん。この店でも刀ば抜いて暴れて、柱に傷ばつけて」
  「どうして、貴女方は土佐の連中が下手人だと思うのですか?」
 
   日本語が異様に上手なサトウに話しかけられると、女たちは一斉に擽ったそうに笑った。そして、互いに顔を見合わせて頷き合う。
 
  「だってねぇ」
  「こん店にはいろいろなお国の人がいらっしゃるけれど、土佐衆が一番威勢がよかもん」
  「そうそう。あの唄ばお聞かせしたら?」
  「あのって、才谷様の?」
 
   不意に飛び出した名に、サトウとミットフォードは同時に顔を顰めた。
 
  「サイダニはこの店によく来るのですか?」
  「ええ、ええ。海援隊の人らはよくいらっしゃおるよ。お話の面白か人で、いつも何処までが本当で、何処からが法螺だか分からなかと」
  「気前もよかよ。まあ、柱ば切ったのも、才谷様だけど」
  「あんお唄は才谷様が作られとよばってん、すごう威勢がよかとよ」
 
   女たちは目配せをし合うと、誰ともなく手拍子を始め唄い出した。
 
  船を沈めた
  その償いは 
  金を取らずに国を取る
 
   『よさこい、よさこい』と合いの手が入る。
 
  国を取って
  ミカンを食らう
 
  再び、女たちは『よさこい、よさこい、晩に来い』と合いの手を入れて、一斉にきゃあきゃあ笑い出した。長州の二人は何事か察したようだったが、英国の二人は何が何だか分からない。
 
  「一体、どういう意味です?」
  「この間、土佐のいろは丸っていう船と紀州の船が衝突しましてね、いろは丸が沈没したんですよ」
  「紀州と言えば、トクガワ一門ですね」
  「ええ。土佐側は紀州に賠償を要求したんですが、紀州はほれ。御三家だもんだから、金なぞ払う気はさらさらなかったんですよ」
  「それで、才谷様がこの唄を丸山中に流行らせて」
  「金は要らないから、国を寄越せなんて。しかも、国を奪って名産の蜜柑を喰らってやろうなんて、御三家相手に剛毅でしょう?」
 
   剛毅と言えば剛毅だが、サイダニという男にいい印象をもっていない英国の二人は、寧ろ紀州に同情した。それは世論を使った脅迫だ。まあ、港に軍艦を並べるのに比べたら随分と可愛らしい脅迫だが。
 
  「それには面白い裏話があるんですよ」
 
   シュンスケがにやりと笑う。
 
  「結局、土佐の連中は紀州から船と積み荷の代金をせしめたんですがね、実は…」
 
   と言って、声を潜める。女たちは目を輝かせて、シュンスケの言葉を待った。
 
  「積み荷なんて積んでいなかったんだそうです」
 
   きゃあと女たちは声を上げ、手を叩いて笑った。御三家から金を巻き上げたということは、彼女たちにとって英雄行為らしかった。だが、ミットフォードは嫌悪感も露わにして呟いた。
 
  「それは詐欺じゃないか」
 
   へへっとシュンスケは、英国公使館に火を点けた話を振られたときのように笑った。サトウはそのシュンスケの笑みをじっと眺めた。
 
  「…シュンスケ。貴方はサイダニと親しいのですか?」
 
   ぴたりと、笑みを絶やさなかったシュンスケの顔が一瞬、固まった。
 
  「いや…別に親しいという程では…」
  「では、その裏話は誰から聞いたのです?」
 
   まるで酔ってなどいないように、サトウは相変わらず涼やかだった。
 
  「いや…誰って訳でも…噂ですよ、噂」
  「でも、今の話はこの丸山ではまだ広まっていなかったようですね。内容から言って、そうそう簡単に漏れる情報とも思えません。もし、紀州に知られでもしたらそれこそ土佐にとって命とりではありませんか?」
 
   シュンスケは不貞腐れた子どものように憮然として黙り込んだ。上手い言い訳が浮かばないらしい。サトウはじっとシュンスケが答えるのを待っていた。
 
  「別に隠すことはないじゃろ、俊輔。この人たちはどうせ知っておるんだ」
 
   ずっと憮然としていたブンタが口を挟んだ。シュンスケが軽々しく秘密を洩らしたのに不服のようだ。そして、英語を使って話し出す。
 
  「僕らは才谷さんからいろいろと買い物をしたんです。そのとき、その話が出たんですよ」
 
  ゴトウは、サイダニが船や武器を商っていると言っていた。つまり、長州が彼から買い物をしたということは、バクフとの二度の戦争の末、長州が更に軍備を増強していることを意味した。
 
  「まあ、あの人は有名な法螺吹きのようだから本当の話かどうかは知りませんが」
  「つまり、貴方方とサイダニは商売人と客の関係だと?」
  「そうです。それ以上でもそれ以下でもないですよ」
  「そんな危ない話をただのお客にするものでしょうか?」
  「軽はずみな人なのでしょう」
 
   ブンタは素気なく言い切った。そう言われてしまうと、それ以上何も言えない。サトウは口を噤み、目をすいと細めた。
 
  「では、別の問いをしましょう」
 
   サトウは日本語で言い直した。いつの間にか女たちまでもしんと静まって、じっとサトウを見ていた。シュンスケも最早笑ってはいない。宴の楽しげな雰囲気もすっかり酔いと共に、飛んでしまった。
 
  「あの事件があった日、土佐の船が相次いで港を出たという噂があるそうです。その噂を聞いていますか?」
 
   女たちは互いに顔を見合わせた。
 
  「そん話も聞いとるけど…何処から聞いたっけ?」
  「そん噂やったら、お元ちゃん。詳しいんじゃなか?」
 
   シュンスケの隣にいた婀娜な女が、不意に一人の女に声をかけた。声をかけられた芸子はみんなよりやや離れた場所に、一人ぽつんと座っていた。
 
  「私はただ…子どもが唄う唄ば聞いただけです」
 
   お元と呼ばれた芸子は静かに答えた。
 
  彼女はこの座に最初からいたのだが、全く目立たない女だった。よく見れば、美しい。混じり気のない黒髪に、すっと通った鼻筋。切れ長の目は西洋的な美意識から言えばやや険があるものの、凛と立つ冬の竹のような清々しさがある。不自然に頬を白く塗りたくったり、唇を紅く染めたりしていなければきっともっと美しいだろう。
 
  そんな彼女が声を掛けられるまで目立たなかったのは、殆ど話をしないせいだった。他の女たちが争う様に酌をしようと、何かにつけてきゃあきゃあと面白おかしく笑おうと、彼女だけはその仲間に入らずに調子を合わせるように微笑んでいるだけだった。
 
  「子どもの唄?」
 
   サトウとミットフォードは同時にキドの言葉を思い出した。あれは出鱈目を言った訳ではなく、何か意図があったのだろうか。
 
  「あん唄はよくできとるし、面白か唄だけん」
  「でも、異人さんに分かるやろか」
 
   お元は少し首を傾げ、薄ら笑った。その笑みに侮蔑の色があるように見えて、英国人たちはムッとした。芸子たちに無礼な扱いを受けること自体は珍しいことではない。大坂では姿を見せただけで逃げられたし、江戸ではいつもまるで敵に対するような冷たい扱いを受けている。しかし、ここは二百年も前から西洋人の相手をしている長崎の遊郭だ。ここでそんな扱いを受ける謂れはなかった。
 
  「このお二人は異人さんじゃけれど、日本の言葉には日本人より詳しいでよ」
 
   シュンスケが英国人の不快を察して、慌てて取り成した。するとお元は目尻に紅を差した目をすいと細めて、疑わしそうに二人の英国人を眺める。
 
  「言葉だけでは、この唄は分からんやろ」
  「分かるかどうかは、聞いてみなければ分かりませんね」
 
   サトウの言葉にお元はちょっと笑うと、傍らに置かれた三味線を己の方へ引き寄せた。
 
  「そんなにおっしゃるなら唄いましょ。よかですか?」
 
  少し首を傾げて客たちに問うた。シュンスケが手を叩きながら「よかよか」と応じる。
 
  「では、失礼して」
 
   お元は三味線を撥で叩いて、唄い始めた。
 
   横笛上手な
   臆病者が
   とっとと往ぬる
   夜明け前
 
   明けてぞ 空が
   白む頃には
   愛し女も
   失せにけり
 
   一人残るは
   寝取られ男
   ゆかりの色の
   衣 噛む
 
   三味線を弾く最後の音が消えて、男たちはやんややんやと喝采を贈った。
 
  「先に出港したヨコブエを臆病な間男に仕立てるなんて、うまくできているね。でも、寝取られ男は御ブギョーかい?それとも我々、英吉利人なのかい?」
 
   先程の遣り取りなど忘れたように、ミットフォードは感心して手を打った。唄の大意をすぐさま聞き取ったことを、周囲の女たちは口ぐちに褒めそやした。
 
  「それだけじゃなかとよ、この唄は」
 
   だが、お元だけはくすくす笑う。そして、シュンスケたちの方へ目を向けた。
 
  「お客様方はお分かりになったでしょう?」
  「もっ勿論じゃ」
 
   シュンスケが慌てて答えた。
 
  「そちら様方には…ちょっと難しかね」
  「お元ちゃん。異人さんたちに意地悪が過ぎるとよ」
  「そうよ。あんまり無礼よ。悪かね…こん唄は…」
  「ちょっと待ってください」
 
   女たちが謎々の答えを説明しようと口を開きかけたとき、サトウは片手を挙げてそれを制した。
 
  「確かに今は、この唄の謎かけは分かりません。でも、必ず解いてみせましょう」
 
   ミットフォードは呆れて、ああと呟いた。サトウの負けず嫌いに一人の芸子が火を点けてしまったのだ。こんな謎に関わり合っている暇なんてない。だが、サトウのことだ。この謎を解いている間は、ここ長崎へ来た目的など忘れてしまうに決まっているのだ。
 
  「楽しみにしておるとよ」
 
   サトウの言葉にお元は初めてにこりと笑った。先ほどまでの意地悪ぶりが嘘みたいな笑みだった。