江戸の情報通
  丘の上からは山々に囲まれた長崎湾が一望できた。知らぬうちに湾を囲む山々は僅かに色づいている。あと一月もすれば美しくも単調な翡翠色だった日本の風景は、京のニシジンのような極彩色に飾られることだろう。
 
  湾には相変わらず何隻もの船が行き来している。煙を吐きながらゆったりと入港する蒸気船。白い帆にたっぷりと風を孕んで進む帆船。それらの間をちょこまかと行き来する日本の千石船など。帆柱の先端辺りを鷗が滑るように飛び交い、それぞれの船が掲げる色とりどりの軍艦旗が翻る。空の青と海の青に映え、絵のように美しい景色だ。
 
   サトウの話を聞き終えた長崎芸子は、相変わらずにこりともしなかった。宴席のキモノに比べてえらく地味な柿渋色のキモノの袖は風に舞うのに任せ、乱れる黒髪を白い手で軽く抑えている。
 
  「…まあまあかね」
 
   海の方を眺めたままで、彼女はただ淡々と言った。
 
  「及第点という訳ですか」
 
   サトウは苦く笑った。謎々の答えを披露したものの、オイディプス(スフィンクスの謎を解いた英雄)のように上手くはいかなかったらしい。
 
  「もう降参ね?」
  「私としてはもう少し頑張りたいところなのですが…Timelimitでして」
 
   言葉が分からず、オモトは眉を寄せてサトウを見た。構わずサトウは港に停泊している一隻の軍艦を指差した。
 
  「コケット号といいます。今夜にも出港する予定なので、もう少ししたら行かなければならないんです」
  「…貴方がたを迎えに来たとね、あん船は」
 
   オモトは目を細めて、遠くを見るような顔つきになった。
 
  「あん船、昨日入ったとじゃなか?」
  「よく知っていますね」
 
   サトウは少し驚いた。東西問わず女性というものは船に関心がない者が多く、一隻一隻区別できる者は稀だ。まして、異国船の出入りが多いこの長崎では、どの船がいつ入港したかなどなかなか分かるものではない。
 
  「船が好きなのですか?」
  「…そんなことはなか。ただ…昔、世話になった人がここからよく船を見とったから…私も偶に見とるだけ」
 
   そう言って、彼女は手にしていた風呂敷包みを軽く抱きしめた。包みの隙間から飛び出た紅の風車が、彼女の胸元で風にからからと回る。
 
  「そう。ここで何時来るかも分からん男を待っとったとよ。あん人は待っとる訳じゃないと言っとったけど…」
 
   まるで風呂敷包みの中へ感情を抑えているみたいに、彼女は言った。
 
  「…その方は…亡くなられたのですか?」
 
   サトウが問うとオモトは微かに笑った。
 
  「阿呆やろ?別に親兄弟でもないのに引きずっとって」
  「いいえ。友の死は時に家族の死と同じように堪えるものです」
 
   じっとオモトは柳の葉のような目でサトウを見入るように見つめた。その視線に、サトウは少し笑って答えた。
 
  「…私は別に…異人が好かん訳じゃなかとよ」
 
   ふと、オモトは零すように言った。
 
  「私は…ただ、国事に奔走しとるちゅう男が好かんとよ」
  「何故です?貴女のお客の殆どはそういう人でしょう」
  「…国事じゃ国事じゃと言うて、命ば粗末にすっとよ。待っている人もいるとに」
 
   サトウはふと故郷の家族を思った。この空の遥か彼方、幻のように遠き英国であの厳格な父は、優しい母は何を思いながら暮らしているのだろう。兄弟姉妹たちは遥か極東の地にある自分を思い出すことなどあるのだろうか。
 
  「…私は、ただ無為に無事であることだけが幸福だとは思いませんね」
 
   そういうとオモトは不機嫌な顔でサトウを睨む。下手に笑ったときよりも、匂い立つ艶やかさに、思わずサトウは苦笑した。
 
  「と、以前は考えていましたが…今は無事であることの尊さも理解しているつもりです」
 
   それでもオモトはまだサトウを睨んでいたが、少し表情は和らいだようだった。
 
  「ところで、ブギョー所では酷い目に遭わされませんでしたか?」
  「よく言うとね。誰のせいでブギョー所に呼び出されたと思おとると?」
  「サイダニ・ウメタローのせいですよ」
 
   恨みの籠ったオモトの言葉にサトウはしれっと答えた。
 
  「人の荷物ば勝手に漁って…」
  「それもサイダニです。私は指一本触れていません」
 
   オモトはむっとしてサトウを見返した。
 
  「お陰さまできつうお灸を据えられました。妙な唄を広めるもんじゃなか、と」
  「では、あの唄は貴女が一人で作ったと?」
  「そうたい。あん噂を聞いて、才谷様みたいに唄にしたらおもしろかろと」
  「そのせいでそのサイダニ様は随分苦労したみたいですが」
  「…あん人は…そいくらいの事は平気ばい」
 
   酷く馴れ馴れしい調子でオモトはサイダニを『あん人』と言った。サトウは一瞬、ちょっと面食らった。
 
  ふと、遠くからオモトの名を呼ぶ声があった。
 
  「お元ちゃん!何しとっと?」
 
   オモトと同じ芸子たちのようだった。皆、布に包まれた三味線を持っているところをみると稽古の帰りか何かなのだろうか。
 
  「出かけるんやったら、早くせんと。仕事に間に合わんよ」
  「そうたいね、ありがとぉ」
 
   オモトはまだ少女のような同僚たちからサトウの方へ向き直った。
 
  「そいでは失礼いたします。また長崎においでんときは、呼んでくれんね」
 
   そう言ってオモトは深々と頭を下げ、踵を返した。サトウは遠ざかるその背をただぼんやりと見送っていた。
 
  「…ちょいと異人さん」
 
   突然、すぐ側から声をかけられてサトウは驚いた。気がつけば先ほどの芸子たちが揃ってサトウの側に腕を組んで並んでいた。日本の女性は男性と比べ更に小柄で、長身のサトウはまるで子どもたちに詰め寄られているような気分だった。
 
  「何です?」
  「悪かばってん、お元ちゃんには先約があるけんね」
 
   赤い唇を尖らして、一人の少女が言う。
 
  「…別に私はそういう訳では…」
  「そうそう。お元ちゃんは『梅様』に夢中なんよ」
 
   芸子たちは一斉にくすくすと笑い始めた。サトウはただ呆気にとられる。
 
  「ウメ様…というのは…ウメタロー?」
  「そう、そう。梅太郎様。今日も甲斐甲斐しく会いに行くところなんよ」
 
   サトウはオモトが行った道の先を見遣った。しかし、丘を下る坂道を何処かで曲がってしまったらしく、その後ろ姿はもう既に何処にも見当たらなかった。
 
 
 
 
  「突然さ、ばたばたと駆け込んできたと思ったら、人の顔をまじまじ見て…」
 
   そこで一呼吸。英国外交官兼公使館づき外科医のウィリスは、その巨体を背もたれから起こして身を乗り出した。
 
  「急にぼろぼろ泣いたりしてさ」
  「泣いたのかい?あの『ウチクビ』を見ても眉一つ動かさなかった冷血漢が」
  「そうそう。横浜の居留地が火事になったときも、『全部焼けて、寧ろすっきりしましたね』なんて笑っていた冷血漢がさ」
 
   ばたばたと走る足音が聞こえ、唐突に部屋のドアが勢いよく開いた。
 
  「ミットフォード!」
  「おや、アーネスト。どうしたんだい?そんなに慌てて」
 
   ミットフォードはティーカップ片手に、いつも通り優雅に微笑んだ。怒りと羞恥に耳まで真っ赤に染めたサトウは、直ぐに言葉が出せず、ぱくぱくと空気を噛んでいる。その隙にウィリスがくすくすと笑いながら、ミットフォードを諌めた。
 
  「あんまりからかったら悪いじゃないか、ミットフォード。取り乱したのは、君に対する友情故だろう?」
 
  「勿論そうさ、ウィリス。寧ろ私は感動しているんだよ。それなのに、アーネストは長崎からこの横浜に着くまで、まともに口を利いてくれなかったんだ」
 
   漸く言葉を取り戻し、サトウは息を吸いこむとミットフォードを怒鳴りつけた。
 
  「元々、貴方が悪いんでしょう。あの女の子を置いてきたら、直ぐに私たちを追って来ればいいのに…!」
 
  「そんなことを言われても…ねえ。あの子の母親がどうしても礼をさせてくれってきかないからさ。じゃあ、お茶だけならって。怒ることないじゃないか。ご覧の通り、私は五体満足なんだし」
 
   ミットフォードは全く動じることなくゆったりとティーカップに口をつける。サトウは更に何か言いかけたが、何を言っても無駄だと判断したのだろう。結局黙って、空いていたスツールに座り込んだ。そんな彼に紅茶を注いでやりながら、ウィリスが問いかける。
 
  「それで?結局、その土佐のならず者に斬られたっていうのは誰だったんだい?」
 
   サトウはあくまで不機嫌そうに答えた。
 
  「エドワード・ウォーレンという水兵ですよ。それから、アメリカ人ジョージ・アンダーソン。斬ったのは土佐藩士、シマムラ・ユウジロー。彼は直ぐに自らブギョー所に名乗り出ました」
  「前の事件で土佐が潔白だということを示すためにやったのかい?」
  「本人はただ酔っ払いに絡まれたから抜刀した、正当防衛だ、と言っていましたがね。それでもまあ、土佐藩への嫌疑が薄らいだのも事実です。結局、新たな目撃者も現れなかったし、土佐の二隻の船が相次いで朝に出航したという証拠も掴めませんでした。全く…今回の長崎行きは碌なことはありませんでした」
 
   吐き捨てるように言い、サトウはむすっと黙り込んだ。隣でミットフォードがにこっと微笑む。
 
  「私はそれほど悪い旅だったとも思わないけれどね。君との友情を深められて」
  「おや?他にも何かあったのかい?」
  「しかも!」
 
   ミットフォードが何か言い出す前に、サトウは鋭く口を挟んだ。ミットフォードとウィリスはやれやれと言うように目配せを交わす。
 
  「…元々、我々は事件の解決など期待されていなかったのですよ」
 
   サトウの言葉にミットフォードとウィリスも表情を改めた。
 
  「どういう意味だい?」
  「先ほど、今回の長崎行の報告ついでに長官に尋ねてみたのです。どうして犯人は土佐だと思われるのかと。そうしたら、何て言ったと思います?」
  「…想像もつかないな」
  「バクフがそう言ったからだと」
  「つまり、どういうことだい?」
 
   サトウはすいと目を細め、苛々と言った。
 
  「つまり、真の犯人は誰でもよいということですよ。何故、バクフが土佐の名を挙げたのかは知りませんが、長官はそれを言質にして犯人が挙がるまでしつこく追及したいだけなんです。土佐に犯人がいればそれはそれでよし。いなければいないで、バクフの無能ぶりが露呈するでしょう。それが狙いなんですよ」
  「はあ…つまり長官はバクフの頭上にこの事件をぶら下げておきたい訳だ。『ダモクレスの剣(王の頭上に吊るされた剣。王は常に命の危険に晒されているという例え)』みたいに」
  「明らかな内政干渉です。長官はこの国が早々に変革することをお望みなんですよ」
  「でも、それは君だって同じだろう?」
 
   図星を突かれてサトウは苦笑を零した。
 
  「そうですね。私はもう少し手段を選びますが」
 
   ミットフォードは小さく肩を竦めたが、サトウは素知らぬ顔で続けた。
 
  「ですが、そのためにはもう少し西国の情報が必要なようです。どうして長州が、同志であるはずの土佐を陥れようとしているのか。土佐のサイダニは長州を信頼していたようですが、キドやシュンスケたちは明らかに我々の嫌疑が土佐に向かうよう仕組んでいましたからね」
  「でも、もう長崎を引き上げてしまったじゃないか。こっちで西国の情報収集というのも限界があるんじゃないのかい?」
 
   ふっとサトウは笑みを浮かべた。
 
  「これまでだって、私は西国の情報を実際に歩いて得ていたわけではありませんよ」
 
   ミットフォードとウィリスは同時にきょとんとした。確かにサトウは西国の動向にも精通しているが、土佐に行くのは今回が初めてだったし、長崎にもそれほど足を運んでいる訳ではなかった。
 
  「また、サイゴウに会うのかい?」
 
   ミットフォードが西国における一番の英傑の名を挙げた。関東にいながらにして西国の情報を得るには、西国の人間がこちらを訪ねてくるのを待つしかないと思ったのだ。だが、サトウはふっと微笑んだ。
 
  「それも悪くありませんね。彼が江戸にいるなら話を聞いてみたいですが、先に会うべき人物がいるんですよ。この国の情勢に最も精通した人物です」
 
   ミットフォードとウィリスは顔を見合わせたが、相応しい人物に思い至らなかった。その間、今までからかわれた仕返しとばかりに、サトウはにやにやしながらティーカップに唇をつけていた。
 
  「降参だよ、アーネスト。一体、誰のことを言っているんだい」
 
   とうとうミットフォードは両手を軽く挙げて降参の意を表した。サトウは少し笑って、答えを明かした。
 
  「カツ・アワノカミ ― 勝安房守 ― ですよ」
 
   ミットフォードもウィリスも怪訝そうな顔をした。その男の名を聞いたことはあったが、西国とはあまり関わりのない人物だったからだ。サトウはそれを察し、続けて説明した。
 
  「カツは確かにバクフの家臣ですが、西国にも人脈をもっています。双方の情報に通じている人間は少ないでしょう」
  「信用はできるのかい?」
  「さあて。サイダニ曰く、この国では嘘吐きな人間しか生きられないそうですからね。それなりの人物だとは思いますよ」
 
   ふふっとサトウは意味ありげに笑い、ミットフォードとウィリスは再び顔を見合わせた。
 
 
 
 
   ハタモトであるカツの屋敷は江戸赤坂にあって、氷川という名の神社のほど近く。閑静な武家屋敷街に屋敷を構えていた。見た目は隣に並ぶハタモト屋敷と何の変哲もないが、ただ庭だけが変わっている。普通日本人の屋敷と言えば、どんなに狭くとも庭は宝石箱のように整えられているものなのだが、カツ邸の庭はまるで誰も住んでいない屋敷のように草も木も自然のまま伸び放題だった。
 
  「ふうん。こいつは面白いねえ」
 
   初めてカツの書斎に案内されたとき、庭と同じくこんなにだらしない日本人を見たことはないとミットフォードは思った。れっきとした英国公使館員を客に迎えたというのに、カツ・アワノカミはまるで親戚の若造か弟子でも家に呼んだときのように寛いだ姿だった。ハカマもつけずに胡坐をかいて、煙草盆に両肘をかけながら煙管を吸っている。しかも狭い室内には反故紙やら本やらが山と積まれていて、兎に角、散らかっているのだ。簡素と清潔を好む大抵の日本人とはあまりに違っていた。
 
   だが、そのこと以上にミットフォードが意外に思ったのは、カツに対するサトウの態度だった。綺麗好きを通り越してやや潔癖の感があるサトウが、そんな男を目の前にして眉を顰めることさえなかったのだ。ただ、少しだけ苦笑して『少しは片づけたらどうです?』と苦言を呈しただけだった。
 
  「この唄は二通りに解釈ができるってぇことかい」
  「ええ。一見して、お分かりになりますか?」
 
   カツはサトウの手帳を覗き込んで、ふむと考え込んだ。そんな彼をサトウはにやにやというより、にこにこしながら眺めている。自分で作った謎々を父親が解いてくれるのを待っている子供みたいだと、ミットフォードは思った。実際二人は親子ほどにも年が違っているのだ。だが、長官との関わり方を見ても分かるように、サトウは年上の人間を無条件に尊敬するタイプではない。カツをそう慕わしげに見るのには、やはりそれなりの理由があるのだろう。
 
   カツは四十を幾つか過ぎているとの話だった。三十代の頃、オランダ人から軍艦や海軍について学び、艦長としてアメリカへも渡航した。バクフの中では海軍の首領株でありながら、海軍修業時代を長崎で過ごしたため西国にも人脈があるらしい。サトウはその敵味方に通じる人脈と、それを利用した情報収集能力を高く評価していてこれまでも何かとカツを訪ねていたようだった。
 
  「一つはさっきおめぇが言ってた土佐の船が二隻、夜明け前に逃げ出したってぇ話だろ」
  「ええ」
  「もう一つは…源氏物語かい?」
 
   サトウはにこりと笑った。
 
  「御明察」
 
   サトウは無論のこと、ミットフォードもその日本古典文学の最高峰の名と概要を知っていた。『ムラサキシキブ』という女性によって紡がれたその長編小説は千年近くの時を経た今となっても日本人の愛読書の一つである。貴族や武士だけでなく町人ですらその登場人物と粗筋ぐらいは心得ており、近年でも物語の舞台を現代に置き換えたものやパロディ本が出版されたこともあるくらいだ。
 
  「よく分かりましたね。これだけで」
  「いや。土佐の船の名は源氏物語の巻の名を取ってつけてあるって話を聞いたことがあってね。源氏で横笛っていやあ、光の君の奥方を寝取った柏木衛門督だろ」
 
   カツは煙管を軽く噛んでぐらぐらさせながら、眉を寄せた。
 
   源氏の若き日からのライバルである頭中将(内大臣)。その息子である柏木は源氏の正妻として降嫁した女三宮に恋をし、密かに情を通じて女三宮は不義の子を身ごもる。だが、それを源氏に看破され、柏木は恐怖と罪悪感から重い病となりやがて死んでしまう。憐れな貴公子は、その後源氏の子として育てられることになる我が子のために、形見の横笛を親友に託すのだ。
 
  「てぇ、ことは…最初の『横笛上手な 臆病者が とっとと往ぬる 夜明け前』っていうのは逢引きしていた柏木が、こそこそ逃げ出したってことじゃねぇのかい?」
 
   サトウは意味ありげに笑った。カツは直ぐに気づいて、むっと眉を寄せる。
 
  「何だい?違うのかい?」
  「まあ、まずは続けてください」
 
   むっとした表情のまま、カツは再び手帳に目を落した。
 
  「…次は…『明けてぞ 空が 白む頃には 愛し女も 失せにけり』か。二隻目は確か『ナンカイ』って言ったねえ。『ナンカイ』っていう源氏物語の巻はねぇから、そいつの日本の名は何て言ったんだい?」
  「それを教えたら簡単じゃないですか。自分で考えてください」
  「はあ?面倒くせぇな」
 
   と言いつつ、カツは腕を組む。
 
  「『愛し女も 失せにけり』…女三宮は出家しちまうけど…そんな名前の巻はねえし…次は『一人残るは 寝取られ男 ゆかりの色の 衣 噛む』か…。寝取られ男が源氏なら…源氏が見送った愛しの君はやっぱり紫の上だろ。ゆかりの色の衣ってあるしな」
 
   源氏の最愛の妻であった紫の上は柏木の死後、暫くして死んでしまう。『往ぬる』や『失せる』を死だと捉えれば、柏木の死に続く重要人物の死は紫の上の死だ。
 
  「そうだな…てぇと、二隻目の船の名は紫の上を表す『若紫』かい」
  「お見事」
 
   謎を解いたカツよりも嬉しそうにサトウは微笑みながら、軽く拍手をした。
 
  「つまり、土佐の二隻の船の相次ぐ出航と柏木、紫の上の相次ぐ死が掛けられていた訳なんです。長崎にいた日本人は皆『ナンカイ』という名よりも『ワカムラサキ』と言う名の方に親しんでいますから、この唄を聞けば裏の意味もすぐに分かったようですよ」
  「一生懸命解いた割には、犯人の手掛かりには何もなりませんでしたけどね」
 
   ミットフォードがちょっと皮肉を言った。
 
  「それにしても…意外に詳しいですね。源氏物語に」
 
   サトウが感心して言うと、カツはふふふと笑って見せた。
 
  「俺はさ、何年も仕事がないときがあってね。家に籠っている間に、本を読むくらいしかやることがなかったのさ。源氏もそのとき読んだよ」
  「土佐の家老、ゴトウはこの唄を聞いて酷く立腹したそうです。その理由も分かりますか?」
 
   ミットフォードが横から口を挟んだ。カツはふいと目を細めてミットフォードへ視線を移す。それからまたちょっと視線を手帳に落として考え込んだが、それほど時間を待たずに破顔した。
 
  「そうさな…そいつは柏木のせいだろ。土佐の山内家の家紋は『土佐柏』。丸に三枚の柏の葉が描かれた紋さ。横笛上手の柏木を臆病者と蔑むのを、土佐そのものを馬鹿にされてるように思ったのだろうさ」
 
   おお、とミットフォードは小さく感嘆の声を上げた。逆にサトウはつまらなそうに眉を寄せている。サトウも横浜に戻ってからその解答に到達したのだが、カツにこうもあっさり解かれたのがおもしろくなかったらしい。
 
  「そんなの、ちょいと勘のいい者なら一読して分かるもんさ」
 
   カツは素気なく言ったが、内心はかなり得意になっているように見えた。緩む頬が止められない。
 
   カツは煙管を煙草盆に打ち付けて灰を落とし、にやりと笑って見せた。
 
  「それにしても、長崎でその何とか梅太郎っていう奴にしてやられたんだろう?おめぇさんらしくもねぇな」
 
   サトウは益々ぶすっとした。
 
  「貴方は会っていないから分からないでしょうけれど…まさか、あのサイダニとオモトが恋人だなんて思いませんよ」
 
   ここでカツ家の女中が茶を手に入ってきた。彼女は畳に手をついて丁寧に頭を下げると、湯呑を二つ差し出した。二人の英国人も話を中断して、軽く頭を下げる。カツは煙草盆を押しやると、彼女が立ち去るのを待って湯呑を手に再び口を開いた。
 
  「でも、それならいろいろ辻褄が合うじゃねえか。まずはそいつが唄を作って、丸山の芸子に広めさせる。それから、その唄を芸子に歌わせた黒幕がいるってことをお前さんたちに匂わせて、噂自体が出鱈目だと思わせる。お前さんたちに土佐は嵌められたんだって思わせたかったんだろうよ。まあ、ちゃちなテだな」
  「オモトは自分が唄を作ったって言いましたよ」
  「そいつは、あれだ。その後、土佐の者が本当に異人を斬りつけて出頭しただろう?だから、余計な小細工をする必要がなくなったのさ」
 
   ううむとミットフォードは唸った。対してサトウは難しい顔で暫し、考え込んでいた。不意に顔を上げ、真っ直ぐにカツを見据える。
 
  「…では、貴方は土佐が犯人ではないとお考えなんですか?」
  「そんなこと俺は知らねぇよ。そうかも知れねぇし、違うかも知れねぇ。存外、下手人はもう腹を切って死んでるかもしれねぇぜ」
 
   事件当日近辺に死んだ者の墓でも暴いてみるこったと、カツは笑った。
 
   サトウは茶を一口飲むと、少し首を傾げて問うた。
 
  「カツ。一つ聞きたいことがあるのですが」
  「何だい。改まって」
  「端的に言って、西国では一体何が起こっているのです?」
 
   今までどことなくにやにやしていたカツが、ちょっと表情を改めた。だが、少し目を細めただけで何も言わない。そこでサトウは続けた。
 
  「私はこれまで西国雄藩は盟約を結んでいるのだと思っていました。特に薩摩、長州、土佐の三藩は足並みを揃えて、バクフに対する革命を起こすつもりなのだと」
 
   バクフの家臣であるカツに対し、サトウがそこまで語ることにミットフォードは少なからず驚いた。しかし、カツは西国諸藩における打倒バクフの計画などとっくに知っているようで表情一つ変えなかった。
 
  「土佐と長州はちょっと立ち位置が違うのさ。長州は意地でも幕府をやっつけてぇ。今まで散々幕府とやりやってるからね、恨んでるのさ。加えて、幕府と薩摩が手を組んで新しい政府なんて作った日にゃ、自分らの居場所がねえじゃねえか」
 
   カツは皮肉に笑った。
 
  「けれど、土佐には戦をする理由がねぇよ。まあ、中には過激な奴らもいるって話だけど、何より容堂公が兵を出すのに乗り気じゃねえらしい」
  「つまり、土佐は革命から手を引くということですか?」
  「さあてね。兵は出さねえで、何とかする方法を考えるかもしれないねえよ」
 
   そう言って、カツは意味ありげに笑った。
 
  「どっちにしても、長州にとって兵を出さねえ土佐は邪魔なのさ。だから、お前さんらが土佐に圧力をかけてくれりゃ、ありがてぇ訳だ」
  「土佐がバクフに失望して、兵を出すかもしれないからですか?」
  「いや。お前さんらは薩摩の武器庫だろ?お前さんらが土佐を敵にするなら、薩摩は土佐と手を切るじゃねえか」
  「武器庫という言い方は気に入りませんね。英国は別にどちらかに肩入れなどしていませんよ」
 
   サトウは涼しい顔でしらっと言い切った。だが、それはカツには通用しないらしい。カツはにやにやと笑った。
 
  「よく言うぜ。お前さんらは絶対に幕府の側にはつかねぇよ。そいつは西郷も桂…今は木戸か…もよく分かってやがる」
  「何故、そう言い切るのです?」
  「お前さんらは日本人が自分らより馬鹿だと思ってるかも知れねえけどな、俺たちの目だってそれほど節穴じゃねぇ」
 
   けけけと小さく声を立ててカツは笑う。
 
  「仏蘭西さ。俺たちの上様は仏蘭西と手をお組みになっている。仏蘭西が幕府についてるうちは、お前さんたち英吉利は絶対に幕府の味方はしねぇ。西郷や木戸がそいつを使って、わざとお前さんたちをけしかけるようなことがなかったかい?」
 
   ミットフォードには心当たりはなく、ただ眉を寄せた。ふと、隣をみるとサトウの横顔は嫌に強張っているように見えた。
 
  「図星かい。サトウさん。あんたは頭がいいけどな…まだまだ、若いね」
 
   カツはからかうような言い方をしたが、その顔は何処か労わるように微笑んでいた。
 
   そして、再び煙草盆を引き寄せて煙管の火皿に煙草の葉を詰めながら、カツはまるで他人事のように言った。
 
  「まあ、しばらく見いているこった。今に面白いことが起こるぜ。そうなったらお前さんら、そんな水兵殺しごときでガタガタ言っていられなくなるよ」
 
   だが、実際に何が起こるのかは幾ら尋ねても、笑うばかりで決して語ろうとはしなかった。
 
 
 
 
  「…この間、サイゴウに会ったとき『イギリスはフランスにいい様に使われている』と言われました。私は思わずムッとして…」
  「それで、我が国の支援をサイゴウに約束した…と?」
 
   カツの家を辞去して、玄関から門までの小道を歩きながらサトウはミットフォードを見ずに、もごもごと語りだした。
 
  「だって…フランスは堂々とバクフに支援をしているんですよ?」
  「だけど、アーネスト。我が国の方針は…」
  「…内政不干渉です」
 
   サトウは珍しく意気消沈した様子でぽつりと言った。自分で分かっていて国の方針を逸脱するのは気にならないらしいのだが、挑発に乗せられたとなるとまた別らしい。誇り高いサトウが傍目に分かるほどしょんぼりするのは珍しく、ミットフォードはあまり責めるのも可哀想な気がした。
 
  「まあ、フランスのことを出されたら我々は誰だって平静ではいられないさ。うちの長官だったら、その場で軍艦の派遣ぐらい約束しているよ」
 
   そう言っても、サトウは弱々しく笑うだけだった。パークス長官はフランスに対して常にライバル心を剥き出しで、フランス公使のロッシュ氏が何かする度に大騒ぎなのだ。その対立を日本側に利用されていると知ったら一体、どんな顔をするのだろう。
 
   ふと背後で飛び石を踏む気配がした。振り返ると先ほどお茶を出してくれたカツ家の女中が物言いたげに立っていた。ミットフォードは彼女の方へ向き直り、彼女が話しやすいように微笑んだ。
 
  「何か?」
  「あの…差し出がましいようですが…一つ、お尋ねしてよろしいでしょうか」
  「どうぞ。我々に分かることならお話しましょう」
 
   彼女はそれでも暫くおずおずとしていた。彼女自身は聞きたいのだが、聞きにくい内容らしかった。女中という立場が彼女を戸惑わせるらしい。彼女は胸の前で両手を何度も握り直した。
 
  「…先ほど…長崎の梅太郎様のお話をなさっていたように思いますが…梅太郎様に何かあったのでしょうか?」
  「…貴女はサイダニ・ウメタローを知っているのですか?」
 
   サトウが問うと女中は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
 
  「サイダニ…梅太郎様?」
  「ええ。土佐のローニン者です」
 
   カツ家の女中は暫しぼんやりとしていたが、ふっとほっとしたような笑みを零した。
 
  「…早合点だったようです。申し訳ありません、どうかお忘れくださいませ」
 
   そう言って頭を下げると、彼女は踵を返して屋敷に戻っていった。その後ろ姿を二人の英国人はぼんやりと見送っていた。