大坂乱舞
  日本一賑やかな商業都市である大坂は、今、二本差しの侍たちでいっぱいだった。いつ起こるとも知れない政変に備え、諸大名が京に近い大坂に兵を集めているのである。各藩の要人も、次々と京や大坂に入っていた。
 
  「落ち着かないのう」
 
   その内の一人、土佐の家老後藤象二郎は乗物の中でふと呟いた。小窓が開けたままになっていたので、図らずもその声が届いたらしい。隣を歩く家臣が独り言を引き取る。
 
  「ええ。我々が落ち着かないと民も落ち着きません。あれは一体、何なのでしょう」
  「…あれな」
 
   後藤は小窓から、ちらりと背後を振り返った。遥か背後に妙な一団がいる。緋の色の縮緬を纏い、『ええじゃないか、ええじゃないか』と声高に喚きながら跳ねるように踊る。その周囲には人垣ができ、踊る一団を盛んに囃し立てていた。
 
   街は祭の喧騒の中にあった。今は(陰暦)十一月下旬。正月にはまだ早い。なのに家の軒先には色とりどりの餅玉や注連縄などが飾られ、民は晴れ着姿で外に繰り出していた。ただでさえ侍たちで街は混んでいるというのに、妙な踊りのせいで往来はもちろん、小料理屋や料亭もいっぱいだった。
 
  「民の声は天の声と言うからの。みな御一新を望んでおるんじゃろう」
 
   後藤は淡々と答えた。だが、自分で言っておいて、あんまり白々しいなと考え直す。
 
  民はきっと自棄になっているのだ。ひしひしと迫る戦の予兆を当然、彼らも感じている。逃げる術も戦う術もない彼らは、例え自分の家が焼かれたとしても指を咥えて見ているしかない。ああして馬鹿騒ぎでもしていなければ、やっていられないのだろう。
 
  乗物は南堀江にある大坂屋敷の門前で止まった。乗物を降りた後藤は、ふと混み合う雑踏に見覚えのある姿を見止めた。
 
  「おや、久しぶりですの」
 
   鮮やかな色彩と喧騒に溢れる往来に異人が二人。こちらに向かって歩いてくるところだった。二人は乗物の傍らで足を止め、帽子を取って挨拶をした。より背が高く棒のように痩せている方がアーネスト・サトウ。もう一人の名を後藤はよく覚えられなかった。
    
  サトウは黒を帯びた金の髪をしていて、まだ二十歳を幾つか越えたばかりの青年だった。彼は殆ど日本人と同じように日本語を操り、同様に文章まで書きこなす。その上、日本の文化や政治経済にも詳しく、初めて将軍に謁見した際には三十六歌仙について講釈してみせたという。交渉相手としても面倒な男で、緻密且つ大胆。そして英吉利人のご多分に漏れず、傲慢で威圧的だった。だが、後藤はこの怜悧な若者が、実は子どもっぽくむきになりやすい一面をもっていることも知っていた。
 
   一方、難しい名前(確かミから始まる)のもう一人は、サトウより年上のせいか落ち着いて見えた。明るい金の髪に、春の空みたいな薄青の瞳。彼は他の英吉利人とも何処か違っていて、いつも何かを楽しむような余裕があり、何処か傍観者めいていた。
 
  「お忙しいと聞きましたので」
 
   にこやかに男は言った。日本人の目から見ると西洋人の顔はどれも似たり寄ったりに見えるのだが、この男の顔だけは均整がとれていて美しく思えた。その美しい顔で愛想よく笑うから、何か嘘くさく見えるのだろう。
 
   この夏、彼らは水兵殺害事件の捜査のために、土佐を訪れた。下手人が土佐者だという証など殆どないに等しいというのに、彼らはうんざりするほどしつこく捜査をし、ついには後藤を長崎にまで付き合わせたのである。その間、およそ一月。それは後藤にとって惜しんでも惜しみきれない一カ月だった。
 
   思えばあの一月、後藤が土佐や長崎から動けない間に、全て引っ繰り返されたのだった。密かに結んでいた王政復古の盟約を薩摩に突然破棄され、土佐は蚊帳の外に放り出された。土佐の老公(容堂)が徳川との戦を望まず、出兵することを拒否したことがその大きな要因だろうが、それでも後藤自身が京にいて事態の収拾に当たっていればこうも疎外されずに済んだかもしれなかった。
 
  「わざわざ御足労いただくのも申し訳ないと思い、こちらから参りました」
 
  そんな後藤の内心を知ってか知らずが、英吉利人は慇懃に言った。今更言ったところで仕方がないと、後藤もまた笑みを浮かべる。
 
  「大坂にはいつ?」
  「今月の初めです。元旦…と言っても、こちらの暦では12月7日だったかな?に、兵庫が開港する予定になっているので、その準備に」
 
   後藤は眉を寄せた。兵庫開港。そして、それに伴う大坂の開市。元々その話は国内の猛反対に遭い、大揉めに揉めた件だった。最終的にはサトウたちの上官である英吉利公使ハリー・パークスが兵庫沖に軍艦をずらりと並べるという強硬手段に出たため、仕方なく応じたのである。
 
  「…それは…ちと、今は難しいのでは?」
  「何故です?」
 
   サトウは冴え冴えと言いながら、少し首を傾げた。どうも彼は少し不機嫌なように見えた。そうやって感情がすぐに表に出てしまうあたり、まだ若いと後藤は思う。
 
  「開港を約した『タイクーン』殿下が、政権を『ミカド』にお返ししたからですか?」
 
  後藤は口を結んだ。このような往来で口にしてよい話題ではなかった。だが、サトウは構わず続ける。
 
  「兵庫の開港は元々、ミカドのお許しもいただいているはずです。この国を統べる方ならば、よもや諸外国との約束を引っ繰り返したりはなさらないでしょう」
  「…貴方がたは…その話をしに来たのかの?」
 
   そう問うと、サトウはすいと微かに眉を寄せて、少し笑った。
 
  「それもありますが…本題は別です。ここでは何ですから、御邪魔させていただいてもいいでしょうか?」
 
   そう言ってサトウは視線をちらりと屋敷へ投げかけた。否と言えないのを知っていて、彼はそんな問いかけをする。
 
  「そりゃ、勿論。構いませんよ」
 
   後藤はちょっと笑って、二人の英吉利人と共に屋敷の門を潜った。
 
 
 
 
  「お疲れのようですね」
 
   刀を右脇に置いて、ゴトウは座布団に腰を下ろした。刀を己の利き手側に置くと抜くことが出来ないため、それが敵意のないことの証になるとのことだった。
 
  このところの政情のせいだろう。ゴトウは以前会ったときよりもやや窶れて、覇気がないように見えた。ミットフォードの言葉にゴトウは薄く笑った。
 
  「何の。苦労しちょるのはわしばかりじゃありません」
  「例の『タイセイホウカン』の話、聞きましたよ。貴方が大君殿下に建白したそうですね」
  「まあのう。まさか…慶喜公がああもあっさり引き受けるとは思わんかったが…」
  「ちょっと、いいでしょうか?」
 
   サトウはコートを丸めて傍らに置くと、どかっとザブトンに腰を下ろした。隣でミットフォードはちょっと肩を竦めた。先日、カツに釘を刺されて以来、サトウは日本人に対して多少用心深くなっていた。
 
  「どうぞ」
  「早速ですが、サイダニ・ウメタローを召喚してください」
 
   ゴトウは僅かに目を見開いた。サトウは射るような目でゴトウを見た。
 
  「彼は我々に偽証を行いました」
  「偽証」
  「ええ。彼はあの唄を丸山界隈に広めた芸子と知り合いであることを隠していました。その上で彼女の荷物を漁ってみせ、例の唄の草稿と思われるものを『発見』してみせました。彼らは示し合わせて我々を騙したのです」
 
   ゴトウはじっとサトウの言葉に耳を傾けていたが、その内容には得心がいかないようだった。
 
  「つまり…あれがその芸子と謀ってあの唄を広めたちゅう話ですかの?何故、あれが土佐を貶めなければならんのです?」
  「それは本人に聞いてみなければなりませんが…推測はできます。土佐を不当に貶めている人間がいることを我々に示して、土佐が陥れられたのだと思わせるためでしょう」
 
   ゴトウは深く眉を寄せた。納得いかなげなゴトウに対し、サトウは苛々と続ける。
 
  「兎に角、彼を呼んでいただきたい。我々に偽りを言った代償を払ってもらわなければなりません」
 
   それでもゴトウは暫く口を噤んでいた。ややあって、溜息のように呟く。
 
  「…そいは無理ですの」
 
  サトウはきりりと眉を上げた。
 
  「どういう意味です?」
  「サイダニは死にました。つい、六日ほど前に」
 
   サトウは咄嗟に返答ができなかった。珍しく歯切れの悪いゴトウの物言いに文句を言ってやろうと身構えていたのだが、用意していた言葉も感情も忽ちのうちに霧散する。
 
  「…死んだ?」
  「ええ。刺客に殺されたんです。三日前が葬式で」
 
   ゴトウの中では既に整理がついているらしく淡々としていた。逆にサトウの方が何を言えばいいのか分からなくなった。この国では容易に人が死ぬ。そして、その対象は誰であっても…反大君派でも大君派でも欧米人でも誰でも…おかしくはない。頭では分かっているつもりだったのに、それはあまりの不意打ちだった。
 
  「誰に…殺されたのです?」
  「まだ、分かっちょりません。幕府の目付か…新選組か…あやつは昔、幕吏を殺したことがありましての」
 
   サトウは殆ど無意識に、まいったなと小さく呟いた。
 
  「正直な者から先に死ぬと言っていたのに…」
 
   嘆くほど親しかった訳ではないはずなのに、サトウは部屋がぐらりと傾いだような感覚だった。存外、自分はあの男にもう一度会いたいと思っていたのだろうかと、ぼんやり思う。
 
  「御愁傷様です。貴方がたも気を落とされたでしょう?」
 
   脇からミットフォードがさらりと気遣わしげに言った。サトウがそんな社交辞令もできずにいるのを察したらしかった。ゴトウは少し笑って、答えた。
 
  「そうですのう。貴方がたがあの水兵殺しの下手人を躍起になって探す気持ちが分かりました。同胞を殺されるちゅうがは、遣る瀬無いもんです」
 
   ゴトウの台詞にサトウは眉を寄せた。正直、サトウは遣る瀬無いなどという気持ちで殺人犯を探したことは一度もなかった。第一、酔いどれて路上に倒れ込んでいた彼らのことを大英帝国の恥とは思っても、同情することなどなかった。それに彼らはたかだか水兵に過ぎない。この事件は外交上のカードであり、情が入り込む余地など少しもなかった。だが、そうは思っても、ゴトウの率直な言葉はサトウの居心地を悪くした。
 
  「あの…唄のことでしたかの?サイダニの遺品の中に確か、そん写しがありました。いや…わしは写しじゃと思っちょったんじゃが…あれが作ったちゅうなら草稿かもしれません。ご覧になりますかの?」
  「ここにあるのですか?」
  「ええ。ちょうど、国元へ送るところだったんじゃが」
 
   ゴトウは廊下に控えていた家臣を呼び寄せ、必要なものを取ってくるように命じた。去っていくその男の背を見るともなしに見送りながら、サトウはゴトウに尋ねた。
 
  「今、サカモトと言いましたね?」
 
   すいとゴトウは目を細めた。
 
  「ああ…才谷は変名での。あれの本当の名は坂本ちゅうがです」
  「サカモト?」
  「坂本龍馬。御存じないですかの?西国ではそれなりに名の通った男じゃが」
 
   サトウは眉を寄せた。サイダニにまで偽名を使われていたのが、兎に角、気に入らなかった。加えて、彼の本名だというサカモトの名にも聞き覚えがなかった。
 
  「知りませんね。そんなに重要な人物には見えませんでしたが」
 
   サトウが皮肉に言うと、ゴトウはちょっと苦く笑った。
 
  「そうですか。そんなもんですかの」
 
   やがて先ほどの男が戻ってきて、ゴトウに何やら書状を手渡した。ゴトウは畳んだままのそれを、サトウの前に差し出した。
 
   黄味がかった和紙。宛名は書かれていない。そしてその紙の右下辺りに赤茶色の染みが広がっていた。
 
   サトウは思わずゴトウを見た。ゴトウはサトウの視線の意味を察して、ちょっと頷いた。
 
  「部屋中、めちゃくちゃでの。そいはその…血溜まりの中に落ちちょったそうじゃ」
 
  サトウは書状を手に取り、赤茶の染みで張り付いた辺りが破れないように気を付けながらそっと開いた。
 
   ぽろりと中からもう一通、書状が転がり落ちた。同じように赤茶の染みが染みているそれを一先ず脇において、サトウは広げた書状に視線を落とした。
 
   確かに書かれていたのはあの唄だった。そればかりか、筆遣いも文字の配置もあのときサイダニに見せられたものによく似ていた。
 
  「…一瞬しか見なかったので確かではありませんが、これはあのときサイダニがオモトのフバコから見つけたものと同じものだと思います」
  「でも、彼はこれをブギョー所に提出したのではなかったのかい?オモトはそれでブギョー所に呼ばれたんだろう?」
 
   ミットフォードが赤茶の染みを気味悪そうに眺めながら、言った。
 
  「彼女は私に話を合わせただけなのかもしれません。彼らが示し合わせていたのだとしたら、これをブギョーにもっていくはずがないでしょう」
 
 
   じっとサトウはその書状を見据えていたが、やがてすいと手を伸ばして、その左端を指でなぞった。
 
  「破られていますね」
 
   手紙は普通、巻紙に書いて最後に小刀で切りとられる。だが、その書状の左端は小刀で切り取られたにしては切り口があまりに汚く、乱暴に破られた感じであった。
 
  「唄はここで終わっているから、破られたのは何か指示とか説明とか…」
  「…署名かもしれませんね。だとしたら、少し妙ですが」
  「何が妙なんだい?」
  「署名を隠したいのなら、この書状ごと処分するべきだと思いませんか?彼にはもうこの唄は必要ないのですから」
  「上手くできたから、とっておきたかったんじゃないのかい?」
  「彼がそんなに風情がある人間には思えませんでしたけどね」
 
   サトウは呟き、そして脇に置いていたもう一通を手に取った。
 
  「これを見ても構いませんか?」
  「どうぞ」
  「…これは…」
 
   手紙を開いて、最初に目に入ったのは朱色の印だった。五枚の花弁をもつ花の形。その真ん中に雄蕊を図案化したような文字が書かれている。ゴトウがサトウの手元をひょいと覗き込んだ。
 
  「それは才谷の印ですな。梅の花の印に才谷太郎と書いてあって、才谷梅太郎と読ませているのです」
  「…なかなか洒落たことをするものですね」
 
   言いながら、サトウはやはりべっとり張り付いている書状を慎重に開いていった。
 
  「何て書いてあるんだい?」
  「…オモト宛です。宛名があります。大したことは書かれていませんね。三年ぶりに会えて嬉しいとか、随分綺麗になったとか」
  「ただ単にオモトが知り合いだということを隠そうとして、この手紙も持ち出したってことかな」
  「そのようですね。あの時一緒に持ち出して、二枚重ねて仕舞っておいたのでしょう」
 
   サトウは書状を何気なく、一通目の書状の上に広げて置いた。途端、誰ともなしに声が上がる。
 
  「…これは…」
  「ええ。…違いますね」
 
   サトウは二枚の書状を隣り合うように並べ、ゴトウの方へ向けた。
 
  「ゴトウ。我々には正確な判断がつかないのですが、貴方はどう思いますか?」
 
   ゴトウは腕を組んでじっと二枚を見比べたが、やがて口を開いた。
 
  「そっちの芸子宛の方は確かに坂本の字じゃな。あやつは悪筆でのう…読みにくくて敵わん。じゃが、そっちの唄の方は…坂本の字とは違いますの」
 
  確かにゴトウの言う通り、サイダニの印の入った書状の文字は酷く読みにくかった。筆先でさらさらと流すように書いたのが目に見えるような文字だ。漢字も適当に当てているものが多く、崩し方もルールを全く無視している。日本文の書き方を必死で学んだサトウにしてみれば、許されないような自由奔放さだった。
 
  だが、もう一通は墨の濃淡からして明らかに違う。その文字は太く、力強い。サイダニの文字のような自由さはあまり見られなかった。
 
  「これで…坂本の嫌疑は晴れたということでしょうかの?」
 
   黙りこくる英国公使館員に対して、ゴトウは淡々と言った。
 
  「そりゃ、よかった。無実の罪を着せられたままではあれも浮かばれんでしょうからのう」
 
 
 
 
  「別に本人の筆跡である必要はないじゃないか。彼にだって仲間はいるんだろうし」
 
   土佐藩邸を辞去し、二人の英国公使館員はのんびりと大坂の街を歩いていた。夕刻が迫る時刻だが、街は未だに賑やかだった。晴れ着を纏う若い娘たちがちらちらとこちらを好奇心いっぱいに眺めているのを視界の隅に入れながら、ミットフォードは言った。
 
  「一つ思い出したことがあります」
 
   対するサトウの声は如何にも忌々しげだった。
 
  「サイダニはゴトウがあの唄について怒っている理由が分からないと言っていました。もし自分で作ったなら、分からないはずはないでしょう」
  「…ああ…」
  「カツの推理は残念ながらハズレのようです」
 
   サトウは薄らと笑った。その脳裏にはきっと、カツの悔しがる顔でも浮かんでいるのだろう。
 
  「捜査はまた振出です。重要参考人が死んでしまったのはかなりの痛手ですね」
  「でも、手掛かりはあるじゃないか」
 
   きゃあと歓声が上がり、人波が急に動き出した。何事かと声の上がった方を見ると、例の奇妙な踊りがこちらの方へやってくるところだった。
 
   髪に花を飾り、手に手に紅の提灯を持って狂ったように踊る。ここ大坂だけではなく、神戸も京もそんな連中でいっぱいなのだと言う。
 
  まるで大坂中の人々がみんな家から飛び出したかのように、道の両端は踊りを見る人で忽ちいっぱいになった。二人の英国人はこの奇妙な現象を興味深く眺めていた。
 
  「まず、オモトとサイダニが知り合いだったのは確実だろう?」
  「ええ。そのようですね」
  「それから、あの唄を広めたのがオモトなのも確実だ」
  「彼らは示し合わせてはいなかったとするなら、あの時、サイダニは本気で彼女を糾弾するつもりだったのでしょう」
  「だけど、サイダニはそうしなかった。少なくとも君の前では」
  「そうです。もしかしたら…あのとき彼は犯人が誰だか知ったのかも知れません。あの書状に署名があって…だから彼は私にあの書状をきちんと見せようとはしなかったのではないでしょうか」
 
   次第に喧騒が近づいてきた。耳を裂くような鉦の音。しゃんしゃん鳴る鈴の音。狂ったように繰り返される『エエジャナイカ、エエジャナイカ』の掛け声。
 
  「…だったら何で…」
  「何です?聞こえないんですが」
  「何で、彼はそいつの名前を君に隠したんだい?彼は土佐の無実を証明したかったのだろう?」
  「分かりません。何か我々に知れては困る人物だったのでしょうか」
 
   群集の真ん中で、踊り子たちは飛び跳ねる。真っ赤な衣がその度に舞い上がり、炎のようでもあり血飛沫のようでもあった。
 
  「今、ちょっと思いついたんだけどさ」
 
   群集の頭越しに奇妙な舞いを眺めながら、ミットフォードが言った。
 
  「何です?」
  「彼が殺されたのは、あの手紙を持っていたせいじゃないのかい?」
 
   すいと目を細めて、サトウはミットフォードの横顔を見た。
 
  「彼はあれを使って真犯人を脅迫していたんだ。それに耐えきれなくなった相手が彼を殺して、あの手紙の署名の部分だけ処分した。どうだい?」
  「…悪くはないと思いますよ」
 
   サトウはふいとミットフォードから目を逸らし、再び踊りの方へ視線を戻した。
 
  「いかにも、サイダニのやりそうなことです」
  「…君、本当に彼が嫌いだね」
  「ですが…残念ながら我々はこの一件ばかりに関わり合っている訳にはいかなそうです」
 
   天から何かがひらひらと雪のように舞い落ちてきた。周囲より頭二つ分背の高いサトウが手を伸ばして、掴み取る。それは女神の名の書かれた小さな紙切れだった。わあっと歓声が上がり、群集は我先に拾い始める。騒乱の中、二人の英吉利人は暫し身動きもとれずにいた。